大学入学共通テスト(国語) 過去問
令和6年度(2024年度)本試験
問7 (第1問(評論) 問7)
問題文
① モーツァルトの没後200年の年となった1991年の、まさにモーツァルトの命日に当たる12月5日に、ウィーンの聖シュテファン大聖堂でモーツァルトの《レクイエム》(注1)の演奏が行われた(直後にLD(注2)が発売されている)。ゲオルク・ショルティ(注3)の指揮するウィーン・フィル(注4)、ウィーン国立歌劇場の合唱団などが出演し、ウィーンの音楽界の総力をあげた演奏でもあるのだが、ここで重要なのは、これがモーツァルトの没後200年を記念する追悼ミサという「宗教行事」であったということである。それゆえ、随所に聖書の朗読や祈りの言葉等、「音楽」ではない台詞(せりふ)の部分や聖体拝領(注5)などの様々な儀式的所作が割り込む形になる。まさに「音楽」でもあり「宗教行事」でもあるという典型的な例である。
② モーツァルトの《レクイエム》という音楽作品として聴こうとする人は、これをどのように認識するのか?あるCDショップのウェブサイトに(ア)ケイサイされているこの演奏のCDのレビュー欄には、「キリスト教徒でない並みの音楽好きには延々と続く典礼の割り込みには正直辟易(へきえき)としてくるのも事実。CDプレイヤーのプログラミング機能がカツ(イ)ヤクする」というコメントが見られる。これを「音楽」として捉えようとするこの聴き手が、音楽部分だけをつなぎ合わせてひとまとまりとして捉えるような認識の仕方をしているさまが彷彿(ほうふつ)としてくる。
③ それに対して、この(ウ)モヨオし物は「音楽」である以前に典礼であり、この聴き手のような本来のあり方を無視した聴き方は本末顚倒(てんとう)だとする立場も当然考えられる。こういうものは、典礼の全体を体験してこそその意味を正しく認識できるのであり、音楽部分だけつまみだして云々(うんぬん)するなどという聴き方は、あらゆる音楽を、コンテクストを無視してコンサートのモデルで捉える19世紀的なアク(エ)ヘイにすぎない、一刻も早く、そういう歪(ゆが)みを取り去って、体験の本来の姿を取り戻さなければならない、そういう主張である。
④ この主張はたしかに一面の真理ではあろう。だがここでの問題は、19世紀には音楽が典礼から自立したとか、それをまた、本来のコンテクストに戻す動きが生じているというような単純な二分法的ストーリーにおさまるものではない。もちろん、物事には見方によっていろいろな側面があるのは当然なのだから、音楽か典礼かというオールオアナッシングのような議論で話が片付かないのはあたりまえだが、何よりも重要なのは、ここでの問題が、音楽vs.典礼といった図式的な二項関係の説明にはおさまりきれない複合的な性格をもった、しかもきわめてアクチュアルな(注6)現代的問題を孕(はら)んでいるということである。
⑤ A これが典礼なのか、音楽なのかという問題は、実はかなり微妙である。たしかに、モーツァルトの命日を記念して聖シュテファン大聖堂で行われている追悼ミサであるという限りでは(オ)マギれもなく宗教行事であるには違いないが、ウィーン・フィルと国立歌劇場合唱団の大部隊が大挙してシュテファン大聖堂に乗り込んで来ているという段階で、すでにかなり異例な事態である。DVDの映像を見ても、前方の祭壇を中心に行われている司式(注7)を見る限りでは通常の「典礼」のようだが、通常の典礼にはない大規模なオーケストラと合唱団を後方に配置するために、聖堂の後ろにある通常の出入り口は閉め切られてしまっている。聖堂での通常の儀礼という範囲に到底おさまりきれないものになっているのだ。客(信徒と言うべきだろうか)もまた、典礼という限りでは、前の祭壇で行われている司式に注目するのが自然であり、実際椅子もそちら向きにセットされているのだが、背後から聞こえてくる音楽は、もはや典礼の一部をなす、というようなレベルをはるかにこえて、その音楽自体を「鑑賞」の対象にしている様子が窺(うかが)える(実際、映像を見ると、「客」が半ば後ろ向きになって、窮屈そうな様子で背後のオーケストラや合唱の方をみている様子が映し出されている)。
⑥ そして何といっても極めつきなのが、この典礼の映像がLD、DVDなどの形でパッケージ化されて販売され、私を含めた大多数の人々はその様子を、これらのメディアを通して体験しているという事実である。これはほとんど音楽的なメディア・イヴェントと言っても過言ではないものになっているのだが、ここで非常におもしろいのは、典礼という宗教行事よりもモーツァルトの「音楽作品」に焦点をあてるという方向性を推し進めた結果、典礼の要素が背景に退くのではなくかえって、典礼をも巻き込む形で全体が「作品化」され、「鑑賞」の対象になるような状況が生じているということである。
⑦ このことは、B 今「芸術」全般にわたって進行しつつある状況とも対応している。それは「博物館化」、「博物館学的欲望」などの語で呼ばれる、きわめて現代的な現象である。コンサートホール同様、19世紀にそのあり方を確立した美術館や博物館においては、様々な物品を現実のコンテクストから切り取って展示する、そのあり方が不自然だという批判が出てきた。たしかに、寺で信仰の対象として長いこと使われ、皆が頭をなでてすり減っているような仏像が、それ自体、美術的な、あるいは歴史的な価値をもつものとして、寺から持ち出されてガラスケースの中に展示され、それを遠くから鑑賞する、というような体験はとても不思議なものではある。最近ではその種の展示でも、単に「もの自体」をみせるのでなく、それが使われたコンテクスト全体をみせ、そのものが生活の中で使われている状況を可能な限りイメージさせるような工夫がなされたり、作家や作品そのものではなく、その背景になった時代全体を主題化した展覧会のようなものが増えたり、といった動きが進んできた。ところがそのことが、単に元のコンテクストに戻す、ということにとどまらない結果を生み出しているのである。
⑧ 美術館や博物館の展示が、物そのものにとどまらず、それを取り巻くコンテクストをも取り込むようになってきていることは、別の見方をすれば、かつては「聖域」として仕切られた「作品そのもの」の外に位置していたはずの現実の時空もろとも、美術館や博物館という「聖域」の中に引きずり込まれた状況であるとみることもできる。それどころか、19世紀以来、こうした場で育まれてきた「鑑賞」のまなざしが今や、美術館や博物館の垣根をのりこえて、町全体に流れ込むようになってきていると言ってよいかもしれない。ディズニーランドやハウステンボスは言うに及ばず、ウィーンでも京都でも、ベルリンや東京でも、いたるところに「歴史的町並み」風の場所が出現し、さながら町全体がテーマパーク化したような状況になっている。そういう場所で人々が周囲の景物に向けるまなざしは、たぶん美術館や博物館の内部で「物そのもの」に向けられていたものに近いものだろう。「博物館化」、「博物館学的欲望」といった語はまさに、そのような心性や状況を言い表そうとしているものである。これまで問題にしてきたシュテファン大聖堂での《レクイエム》のケースも、それになぞらえれば、単に音楽をコンサートから典礼のコンテクストに戻したのではなく、むしろ典礼そのものをもコンサート的なまなざしのうちに置こうとする人々の「コンサートホール的欲望」によって、コンサートの外なる場所であったはずの現実の都市の様々な空間が、どんどん「コンサートホール化」されている状況の反映と言い換えることができるように思われる。
⑨ 「音楽」や「芸術」の概念の話に戻り、今のそういう状況に重ね合わせて考え直してみるならば、この状況は、近代的なコンサートホールの展開と相関的に形成されてきた「音楽」や「芸術」に向けるまなざしや聴き方が今や、その外側にまであふれ出てきて、かつてそのような概念の適用範囲外にあった領域にまでどんどん浸食してきている状況であると言いうるだろう。逆説的な言い方になるが、一見したところ「音楽」や「芸術」という伝統的な概念や枠組みが解体、多様化しているようにみえる状況と裏腹に、むしろコンサートホールや美術館から漏れ出したそれらの概念があらゆるものの「音楽化」や「芸術化」を促進しているように思われるのである。だがそうであるならば、「音楽」や「芸術」という概念が自明の前提であるかのように考えてスタートしてしまうような議論に対しては、C なおさら警戒心をもって周到に臨まなければならないのではないだろうか。このような状況自体、特定の歴史的・文化的コンテクストの中で一定の価値観やイデオロギーに媒介されることによって成り立っているのだとすれば、そこでの「音楽化」や「芸術化」の動きの周辺にはたらいている力学や、そういう中で「音楽」や「芸術」の概念が形作られたり変容したりする過程やメカニズムを明確にすることこそが決定的に重要になってくるからである。
⑩ 問題のポイントを簡単に言うなら、「音楽」や「芸術」は決して最初から「ある」わけではなく、「なる」ものであるということになろう。それにもかかわらず、「音楽」や「芸術」という概念を繰り返し使っているうちに、それがいつの間にか本質化され、最初から「ある」かのような話にすりかわってしまい(ちょうど紙幣を繰り返し使っているうちに、それ自体に価値が具(そな)わっているかのように錯覚するようになってしまうのと同じである)、その結果は、気がついてみたら、「音楽は国境を越える」、「音楽で世界は一つ」という怪しげなグローバリズムの論理に取り込まれていたということにもなりかねないのである。
(渡辺裕(わたなべひろし)『サウンドとメディアの文化資源学 ―― 境界線上の音楽』による)
(注1)レクイエム ―― 死者の魂が天国に迎え入れられるよう神に祈るための曲。
(注2)LD ―― レーザーディスク。映像・音声の記録媒体の一つ。
(注3)ゲオルク・ショルティ ―― ハンガリー出身の指揮者、ピアニスト(1912―1997)。
(注4)ウィーン・フィル ―― ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のこと。
(注5)聖体拝領 ―― キリストの血と肉を象徴する葡萄(ぶどう)酒とパンを人々が受け取る儀式。
(注6)アクチュアルな ―― 今まさに直面している。
(注7)司式 ―― 教会の儀式をつかさどること。ここでは儀式そのものを指す。
下線部B「今『芸術』全般にわたって進行しつつある状況」とあるが、それはどのような状況か。その説明として最も適当なものを、次のうちから一つ選べ。
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問題
大学入学共通テスト(国語)試験 令和6年度(2024年度)本試験 問7(第1問(評論) 問7) (訂正依頼・報告はこちら)
① モーツァルトの没後200年の年となった1991年の、まさにモーツァルトの命日に当たる12月5日に、ウィーンの聖シュテファン大聖堂でモーツァルトの《レクイエム》(注1)の演奏が行われた(直後にLD(注2)が発売されている)。ゲオルク・ショルティ(注3)の指揮するウィーン・フィル(注4)、ウィーン国立歌劇場の合唱団などが出演し、ウィーンの音楽界の総力をあげた演奏でもあるのだが、ここで重要なのは、これがモーツァルトの没後200年を記念する追悼ミサという「宗教行事」であったということである。それゆえ、随所に聖書の朗読や祈りの言葉等、「音楽」ではない台詞(せりふ)の部分や聖体拝領(注5)などの様々な儀式的所作が割り込む形になる。まさに「音楽」でもあり「宗教行事」でもあるという典型的な例である。
② モーツァルトの《レクイエム》という音楽作品として聴こうとする人は、これをどのように認識するのか?あるCDショップのウェブサイトに(ア)ケイサイされているこの演奏のCDのレビュー欄には、「キリスト教徒でない並みの音楽好きには延々と続く典礼の割り込みには正直辟易(へきえき)としてくるのも事実。CDプレイヤーのプログラミング機能がカツ(イ)ヤクする」というコメントが見られる。これを「音楽」として捉えようとするこの聴き手が、音楽部分だけをつなぎ合わせてひとまとまりとして捉えるような認識の仕方をしているさまが彷彿(ほうふつ)としてくる。
③ それに対して、この(ウ)モヨオし物は「音楽」である以前に典礼であり、この聴き手のような本来のあり方を無視した聴き方は本末顚倒(てんとう)だとする立場も当然考えられる。こういうものは、典礼の全体を体験してこそその意味を正しく認識できるのであり、音楽部分だけつまみだして云々(うんぬん)するなどという聴き方は、あらゆる音楽を、コンテクストを無視してコンサートのモデルで捉える19世紀的なアク(エ)ヘイにすぎない、一刻も早く、そういう歪(ゆが)みを取り去って、体験の本来の姿を取り戻さなければならない、そういう主張である。
④ この主張はたしかに一面の真理ではあろう。だがここでの問題は、19世紀には音楽が典礼から自立したとか、それをまた、本来のコンテクストに戻す動きが生じているというような単純な二分法的ストーリーにおさまるものではない。もちろん、物事には見方によっていろいろな側面があるのは当然なのだから、音楽か典礼かというオールオアナッシングのような議論で話が片付かないのはあたりまえだが、何よりも重要なのは、ここでの問題が、音楽vs.典礼といった図式的な二項関係の説明にはおさまりきれない複合的な性格をもった、しかもきわめてアクチュアルな(注6)現代的問題を孕(はら)んでいるということである。
⑤ A これが典礼なのか、音楽なのかという問題は、実はかなり微妙である。たしかに、モーツァルトの命日を記念して聖シュテファン大聖堂で行われている追悼ミサであるという限りでは(オ)マギれもなく宗教行事であるには違いないが、ウィーン・フィルと国立歌劇場合唱団の大部隊が大挙してシュテファン大聖堂に乗り込んで来ているという段階で、すでにかなり異例な事態である。DVDの映像を見ても、前方の祭壇を中心に行われている司式(注7)を見る限りでは通常の「典礼」のようだが、通常の典礼にはない大規模なオーケストラと合唱団を後方に配置するために、聖堂の後ろにある通常の出入り口は閉め切られてしまっている。聖堂での通常の儀礼という範囲に到底おさまりきれないものになっているのだ。客(信徒と言うべきだろうか)もまた、典礼という限りでは、前の祭壇で行われている司式に注目するのが自然であり、実際椅子もそちら向きにセットされているのだが、背後から聞こえてくる音楽は、もはや典礼の一部をなす、というようなレベルをはるかにこえて、その音楽自体を「鑑賞」の対象にしている様子が窺(うかが)える(実際、映像を見ると、「客」が半ば後ろ向きになって、窮屈そうな様子で背後のオーケストラや合唱の方をみている様子が映し出されている)。
⑥ そして何といっても極めつきなのが、この典礼の映像がLD、DVDなどの形でパッケージ化されて販売され、私を含めた大多数の人々はその様子を、これらのメディアを通して体験しているという事実である。これはほとんど音楽的なメディア・イヴェントと言っても過言ではないものになっているのだが、ここで非常におもしろいのは、典礼という宗教行事よりもモーツァルトの「音楽作品」に焦点をあてるという方向性を推し進めた結果、典礼の要素が背景に退くのではなくかえって、典礼をも巻き込む形で全体が「作品化」され、「鑑賞」の対象になるような状況が生じているということである。
⑦ このことは、B 今「芸術」全般にわたって進行しつつある状況とも対応している。それは「博物館化」、「博物館学的欲望」などの語で呼ばれる、きわめて現代的な現象である。コンサートホール同様、19世紀にそのあり方を確立した美術館や博物館においては、様々な物品を現実のコンテクストから切り取って展示する、そのあり方が不自然だという批判が出てきた。たしかに、寺で信仰の対象として長いこと使われ、皆が頭をなでてすり減っているような仏像が、それ自体、美術的な、あるいは歴史的な価値をもつものとして、寺から持ち出されてガラスケースの中に展示され、それを遠くから鑑賞する、というような体験はとても不思議なものではある。最近ではその種の展示でも、単に「もの自体」をみせるのでなく、それが使われたコンテクスト全体をみせ、そのものが生活の中で使われている状況を可能な限りイメージさせるような工夫がなされたり、作家や作品そのものではなく、その背景になった時代全体を主題化した展覧会のようなものが増えたり、といった動きが進んできた。ところがそのことが、単に元のコンテクストに戻す、ということにとどまらない結果を生み出しているのである。
⑧ 美術館や博物館の展示が、物そのものにとどまらず、それを取り巻くコンテクストをも取り込むようになってきていることは、別の見方をすれば、かつては「聖域」として仕切られた「作品そのもの」の外に位置していたはずの現実の時空もろとも、美術館や博物館という「聖域」の中に引きずり込まれた状況であるとみることもできる。それどころか、19世紀以来、こうした場で育まれてきた「鑑賞」のまなざしが今や、美術館や博物館の垣根をのりこえて、町全体に流れ込むようになってきていると言ってよいかもしれない。ディズニーランドやハウステンボスは言うに及ばず、ウィーンでも京都でも、ベルリンや東京でも、いたるところに「歴史的町並み」風の場所が出現し、さながら町全体がテーマパーク化したような状況になっている。そういう場所で人々が周囲の景物に向けるまなざしは、たぶん美術館や博物館の内部で「物そのもの」に向けられていたものに近いものだろう。「博物館化」、「博物館学的欲望」といった語はまさに、そのような心性や状況を言い表そうとしているものである。これまで問題にしてきたシュテファン大聖堂での《レクイエム》のケースも、それになぞらえれば、単に音楽をコンサートから典礼のコンテクストに戻したのではなく、むしろ典礼そのものをもコンサート的なまなざしのうちに置こうとする人々の「コンサートホール的欲望」によって、コンサートの外なる場所であったはずの現実の都市の様々な空間が、どんどん「コンサートホール化」されている状況の反映と言い換えることができるように思われる。
⑨ 「音楽」や「芸術」の概念の話に戻り、今のそういう状況に重ね合わせて考え直してみるならば、この状況は、近代的なコンサートホールの展開と相関的に形成されてきた「音楽」や「芸術」に向けるまなざしや聴き方が今や、その外側にまであふれ出てきて、かつてそのような概念の適用範囲外にあった領域にまでどんどん浸食してきている状況であると言いうるだろう。逆説的な言い方になるが、一見したところ「音楽」や「芸術」という伝統的な概念や枠組みが解体、多様化しているようにみえる状況と裏腹に、むしろコンサートホールや美術館から漏れ出したそれらの概念があらゆるものの「音楽化」や「芸術化」を促進しているように思われるのである。だがそうであるならば、「音楽」や「芸術」という概念が自明の前提であるかのように考えてスタートしてしまうような議論に対しては、C なおさら警戒心をもって周到に臨まなければならないのではないだろうか。このような状況自体、特定の歴史的・文化的コンテクストの中で一定の価値観やイデオロギーに媒介されることによって成り立っているのだとすれば、そこでの「音楽化」や「芸術化」の動きの周辺にはたらいている力学や、そういう中で「音楽」や「芸術」の概念が形作られたり変容したりする過程やメカニズムを明確にすることこそが決定的に重要になってくるからである。
⑩ 問題のポイントを簡単に言うなら、「音楽」や「芸術」は決して最初から「ある」わけではなく、「なる」ものであるということになろう。それにもかかわらず、「音楽」や「芸術」という概念を繰り返し使っているうちに、それがいつの間にか本質化され、最初から「ある」かのような話にすりかわってしまい(ちょうど紙幣を繰り返し使っているうちに、それ自体に価値が具(そな)わっているかのように錯覚するようになってしまうのと同じである)、その結果は、気がついてみたら、「音楽は国境を越える」、「音楽で世界は一つ」という怪しげなグローバリズムの論理に取り込まれていたということにもなりかねないのである。
(渡辺裕(わたなべひろし)『サウンドとメディアの文化資源学 ―― 境界線上の音楽』による)
(注1)レクイエム ―― 死者の魂が天国に迎え入れられるよう神に祈るための曲。
(注2)LD ―― レーザーディスク。映像・音声の記録媒体の一つ。
(注3)ゲオルク・ショルティ ―― ハンガリー出身の指揮者、ピアニスト(1912―1997)。
(注4)ウィーン・フィル ―― ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のこと。
(注5)聖体拝領 ―― キリストの血と肉を象徴する葡萄(ぶどう)酒とパンを人々が受け取る儀式。
(注6)アクチュアルな ―― 今まさに直面している。
(注7)司式 ―― 教会の儀式をつかさどること。ここでは儀式そのものを指す。
下線部B「今『芸術』全般にわたって進行しつつある状況」とあるが、それはどのような状況か。その説明として最も適当なものを、次のうちから一つ選べ。
- 展示物をその背景とともに捉えることで、美術館や博物館の内部で作品に向けられていたまなざしが周囲の事物にも向けられるようになり、現実の空間まで鑑賞の対象に組み込まれてきたという状況。
- 展示物を取り巻くコンテクストもイメージすることで、美術館や博物館内部の空間よりもその周辺に関心が移り、物そのものが置かれていた生活空間も鑑賞の対象とする考え方がもたらされてきたという状況。
- 作品の展示空間を美術館や博物館の内部に限ったものと見なすのではなく、地域全体を展示空間と見なす新たな鑑賞のまなざしが生まれ、施設の内部と外部の境界が曖昧になってきたという状況。
- 生活の中にあった事物が美術館や博物館の内部に展示物として取り込まれるようになったことで、作品と結びついたコンテクスト全体が鑑賞の対象として主題化されるようになってきたという状況。
- 美術館や博物館内部の展示空間からその外に位置していた現実の時空にも鑑賞の対象が拡大していくにつれて、町全体をテーマパーク化し人々の関心を呼び込もうとする都市が出現してきたという状況。
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この過去問の解説 (3件)
01
傍線部が示す「状況」とは、傍線部すぐ後の一文で、「博物館化」、「博物館学的欲望」というきわめて現代的な現象だと本文で述べられています。よって、これらの現象がどういうものか、段落⑦・⑧から読み取り、それを踏まえた選択肢を考える必要があります。
段落⑦・⑧の要旨としては、下記のようなことです。
・博物館等での展示品を、その展示品がもつ背景を無視し、現実のコンテクスト(=文脈、背景、前後関係…)から切り取って展示するのが不自然だという批判が発生。
↓
・それにより、物そのものだけでなく、物を取り巻くコンテクスト、時代全体を主題化した展覧会のようなものが増加。それは、単に元のコンテクストに戻す、ということにとどまらない結果を生み出した。
↓
・その結果とは、本来、博物館等の「聖域」(=外部から侵されることのない神聖な区域)として仕切られた場で育まれた「鑑賞」のまなざしが、博物館等の仕切りをこえて、町全体に流れ込むようになってきていること。=博物館等の内部で展示品に向けられていたまなざしが、聖域外であったはずの現実の都市や空間に向けられるようになっていること。現実の都市・空間も「鑑賞」の対象になったこと。
これが最も適当な解答です。
○「展示物をその背景とともに捉えることで、」
→「展示物そのもの」だけでなく、背景やコンテクストをも重視する考えは段落⑦の内容に沿っています。
○「美術館や博物館の(中略)周囲の事物にも向けられるようになり、(以下略)」
→博物館等を聖域として、その内部のみで育まれた鑑賞のまなざしが、その仕切りをこえて向けられるようになった、という段落⑧の内容に沿っています。
不適当です。
△「美術館や博物館内部の空間よりもその周辺に関心が移り、」
→本文中では、「物そのものにとどまらず、それを取り巻くコンテクストをも取り込むようになってきている」と述べられており、内容が沿いません。
不適当です。
△「作品の展示空間を美術館や博物館の内部に限ったものと見なすのではなく、」
→本文の中では、展示品を「物そのもの」のみで切り取って鑑賞することが問題視されるようになった点を言及しているのであり、選択肢とでは問題とする着眼点がズレています。
不適当です。
△「生活の中にあった事物が美術館や博物館の内部に展示物として取り込まれるようになったことで、」
→本文では、そうした限られた内部のみで鑑賞することが批判されるようになったことで〈=理由〉、コンテクスト全体が鑑賞対象となってきた状況〈=結果〉を述べており、〈理由→結果〉の説明が、本文中の説明とは沿いません。
〈結果〉(コンテクスト全体が鑑賞対象になった)の根拠とする状況の説明が、選択肢と本文とでチグハグなのです。
不適当です。
△「町全体をテーマパーク化して人々の関心を呼び込もうとする都市が出現してきたという状況」
→傍線部が指す「状況」の説明として不適です。段落⑦・⑧の要旨が抑えられていない内容です。
選択肢の取捨選択のためには、本文ではどのような流れで説明がされているか押さえることが鍵となります。
本文と内容的な相違がないかはもちろん、本文で述べられる〈理由(根拠・原因…)→結果(主張…)〉を踏まえ、各選択肢の〈理由→結果〉のつながりや主張の根拠が、本文の内容とズレがないかまで、見極められると良いでしょう。
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02
下線部B以前の追悼ミサの《レクイエム》の例で起こった現象を、本問では芸術全般に押し広げて説明します。
人々の鑑賞の対象が拡大してきた過程を不足なく説明できており正解の選択肢です。
関心が美術館や博物館の内部からその周辺に移ったのではなく、周辺にも拡大したというのが本文での筆者の主張です。
人々が鑑賞の対象として認識するものは、物品そのものに限定された状況から、それを取り巻くコンテクスト、さらには美術館や博物館の直接的な影響範囲を超えた現実世界まで拡大しました。
「境界が曖昧になった」という表現はそういった認識の運動性を十分に説明したものではありません。
「生活の中にあった事物が美術館や博物館の内部に展示物として取り込まれるようになったこと」そのものが「作品と結びついたコンテクスト全体が鑑賞の対象として主題化されるようになってきた」原因ではありません。
それらの事物がコンテクストと切り離されて展示されている状況が不自然だという声が高まったために、コンテクストをも取り込む形で鑑賞の対象となったことが本文の主張です。
町のテーマパーク化を主題として説明しています。
芸術全般を対象とできないような限定された範囲の説明は誤りです。
本文で説明された内容が入っている選択肢でも、論全体の構造と食い違うことがあります。
いくつかのかたまりに分け、個々の論理関係を図解するなどの工夫が役に立つでしょう。
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03
選ぶべき説明は 「展示物をその背景とともに捉えることで、美術館や博物館の内部で作品に向けられていたまなざしが周囲の事物にも向けられるようになり、現実の空間まで鑑賞の対象に組み込まれてきたという状況。」 です。
筆者は「博物館化」という言葉で、展示室に限定されていた鑑賞の視線が外へあふれ出し、現実の時空そのものが展示の延長として“見る”対象に取り込まれていく過程を指摘しています。この動きを端的に示しているのが上の選択肢です。
作品だけでなく背景ごと「展示」として眺める視線が、館内を越えて現実空間へ広がる――本文⑧が描く「聖域の外側の時空までも引きずり込む」現象をそのまま表しています。
周辺への関心に触れますが、「鑑賞のまなざしが内部から外部へ拡大する」という核心が弱く、町全体を巻き込む動きまで示し切れていません。
境界の曖昧化を示しますが、もともと館内で育まれた視線が外へ「流れ込む」という一本の流れよりも、いきなり地域全体を展示空間とする発想に飛んでおり、本文で強調される“まなざしの拡散過程”がやや見えにくくなります。
「外の物を中へ取り込む」側面だけを説明し、逆に鑑賞の視線が外界へ広がる動きを欠いています。
テーマパーク化の指摘は近いものの、「都市が呼び込もうとする」という経済的戦略まで踏み込み、本文では語られていない“意図”的側面を付け足しています。
本文⑧は、
1.展示が「物そのもの」から背景や使用状況へ拡大し、
2.その結果、館内で培われた鑑賞の視線が外部の現実空間へ染み出す
という二段階を描いています。選んだ選択肢はこの連続した流れを過不足なく取り込み、現実の時空が展示室に取り込まれ、同時に鑑賞の対象として外部にも広がるという「博物館化」の要点を最も的確に示しています。
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