大学入学共通テスト(国語) 過去問
令和6年度(2024年度)本試験
問9 (第1問(評論) 問9)
問題文
① モーツァルトの没後200年の年となった1991年の、まさにモーツァルトの命日に当たる12月5日に、ウィーンの聖シュテファン大聖堂でモーツァルトの《レクイエム》(注1)の演奏が行われた(直後にLD(注2)が発売されている)。ゲオルク・ショルティ(注3)の指揮するウィーン・フィル(注4)、ウィーン国立歌劇場の合唱団などが出演し、ウィーンの音楽界の総力をあげた演奏でもあるのだが、ここで重要なのは、これがモーツァルトの没後200年を記念する追悼ミサという「宗教行事」であったということである。それゆえ、随所に聖書の朗読や祈りの言葉等、「音楽」ではない台詞(せりふ)の部分や聖体拝領(注5)などの様々な儀式的所作が割り込む形になる。まさに「音楽」でもあり「宗教行事」でもあるという典型的な例である。
② モーツァルトの《レクイエム》という音楽作品として聴こうとする人は、これをどのように認識するのか?あるCDショップのウェブサイトに(ア)ケイサイされているこの演奏のCDのレビュー欄には、「キリスト教徒でない並みの音楽好きには延々と続く典礼の割り込みには正直辟易(へきえき)としてくるのも事実。CDプレイヤーのプログラミング機能がカツ(イ)ヤクする」というコメントが見られる。これを「音楽」として捉えようとするこの聴き手が、音楽部分だけをつなぎ合わせてひとまとまりとして捉えるような認識の仕方をしているさまが彷彿(ほうふつ)としてくる。
③ それに対して、この(ウ)モヨオし物は「音楽」である以前に典礼であり、この聴き手のような本来のあり方を無視した聴き方は本末顚倒(てんとう)だとする立場も当然考えられる。こういうものは、典礼の全体を体験してこそその意味を正しく認識できるのであり、音楽部分だけつまみだして云々(うんぬん)するなどという聴き方は、あらゆる音楽を、コンテクストを無視してコンサートのモデルで捉える19世紀的なアク(エ)ヘイにすぎない、一刻も早く、そういう歪(ゆが)みを取り去って、体験の本来の姿を取り戻さなければならない、そういう主張である。
④ この主張はたしかに一面の真理ではあろう。だがここでの問題は、19世紀には音楽が典礼から自立したとか、それをまた、本来のコンテクストに戻す動きが生じているというような単純な二分法的ストーリーにおさまるものではない。もちろん、物事には見方によっていろいろな側面があるのは当然なのだから、音楽か典礼かというオールオアナッシングのような議論で話が片付かないのはあたりまえだが、何よりも重要なのは、ここでの問題が、音楽vs.典礼といった図式的な二項関係の説明にはおさまりきれない複合的な性格をもった、しかもきわめてアクチュアルな(注6)現代的問題を孕(はら)んでいるということである。
⑤ A これが典礼なのか、音楽なのかという問題は、実はかなり微妙である。たしかに、モーツァルトの命日を記念して聖シュテファン大聖堂で行われている追悼ミサであるという限りでは(オ)マギれもなく宗教行事であるには違いないが、ウィーン・フィルと国立歌劇場合唱団の大部隊が大挙してシュテファン大聖堂に乗り込んで来ているという段階で、すでにかなり異例な事態である。DVDの映像を見ても、前方の祭壇を中心に行われている司式(注7)を見る限りでは通常の「典礼」のようだが、通常の典礼にはない大規模なオーケストラと合唱団を後方に配置するために、聖堂の後ろにある通常の出入り口は閉め切られてしまっている。聖堂での通常の儀礼という範囲に到底おさまりきれないものになっているのだ。客(信徒と言うべきだろうか)もまた、典礼という限りでは、前の祭壇で行われている司式に注目するのが自然であり、実際椅子もそちら向きにセットされているのだが、背後から聞こえてくる音楽は、もはや典礼の一部をなす、というようなレベルをはるかにこえて、その音楽自体を「鑑賞」の対象にしている様子が窺(うかが)える(実際、映像を見ると、「客」が半ば後ろ向きになって、窮屈そうな様子で背後のオーケストラや合唱の方をみている様子が映し出されている)。
⑥ そして何といっても極めつきなのが、この典礼の映像がLD、DVDなどの形でパッケージ化されて販売され、私を含めた大多数の人々はその様子を、これらのメディアを通して体験しているという事実である。これはほとんど音楽的なメディア・イヴェントと言っても過言ではないものになっているのだが、ここで非常におもしろいのは、典礼という宗教行事よりもモーツァルトの「音楽作品」に焦点をあてるという方向性を推し進めた結果、典礼の要素が背景に退くのではなくかえって、典礼をも巻き込む形で全体が「作品化」され、「鑑賞」の対象になるような状況が生じているということである。
⑦ このことは、B 今「芸術」全般にわたって進行しつつある状況とも対応している。それは「博物館化」、「博物館学的欲望」などの語で呼ばれる、きわめて現代的な現象である。コンサートホール同様、19世紀にそのあり方を確立した美術館や博物館においては、様々な物品を現実のコンテクストから切り取って展示する、そのあり方が不自然だという批判が出てきた。たしかに、寺で信仰の対象として長いこと使われ、皆が頭をなでてすり減っているような仏像が、それ自体、美術的な、あるいは歴史的な価値をもつものとして、寺から持ち出されてガラスケースの中に展示され、それを遠くから鑑賞する、というような体験はとても不思議なものではある。最近ではその種の展示でも、単に「もの自体」をみせるのでなく、それが使われたコンテクスト全体をみせ、そのものが生活の中で使われている状況を可能な限りイメージさせるような工夫がなされたり、作家や作品そのものではなく、その背景になった時代全体を主題化した展覧会のようなものが増えたり、といった動きが進んできた。ところがそのことが、単に元のコンテクストに戻す、ということにとどまらない結果を生み出しているのである。
⑧ 美術館や博物館の展示が、物そのものにとどまらず、それを取り巻くコンテクストをも取り込むようになってきていることは、別の見方をすれば、かつては「聖域」として仕切られた「作品そのもの」の外に位置していたはずの現実の時空もろとも、美術館や博物館という「聖域」の中に引きずり込まれた状況であるとみることもできる。それどころか、19世紀以来、こうした場で育まれてきた「鑑賞」のまなざしが今や、美術館や博物館の垣根をのりこえて、町全体に流れ込むようになってきていると言ってよいかもしれない。ディズニーランドやハウステンボスは言うに及ばず、ウィーンでも京都でも、ベルリンや東京でも、いたるところに「歴史的町並み」風の場所が出現し、さながら町全体がテーマパーク化したような状況になっている。そういう場所で人々が周囲の景物に向けるまなざしは、たぶん美術館や博物館の内部で「物そのもの」に向けられていたものに近いものだろう。「博物館化」、「博物館学的欲望」といった語はまさに、そのような心性や状況を言い表そうとしているものである。これまで問題にしてきたシュテファン大聖堂での《レクイエム》のケースも、それになぞらえれば、単に音楽をコンサートから典礼のコンテクストに戻したのではなく、むしろ典礼そのものをもコンサート的なまなざしのうちに置こうとする人々の「コンサートホール的欲望」によって、コンサートの外なる場所であったはずの現実の都市の様々な空間が、どんどん「コンサートホール化」されている状況の反映と言い換えることができるように思われる。
⑨ 「音楽」や「芸術」の概念の話に戻り、今のそういう状況に重ね合わせて考え直してみるならば、この状況は、近代的なコンサートホールの展開と相関的に形成されてきた「音楽」や「芸術」に向けるまなざしや聴き方が今や、その外側にまであふれ出てきて、かつてそのような概念の適用範囲外にあった領域にまでどんどん浸食してきている状況であると言いうるだろう。逆説的な言い方になるが、一見したところ「音楽」や「芸術」という伝統的な概念や枠組みが解体、多様化しているようにみえる状況と裏腹に、むしろコンサートホールや美術館から漏れ出したそれらの概念があらゆるものの「音楽化」や「芸術化」を促進しているように思われるのである。だがそうであるならば、「音楽」や「芸術」という概念が自明の前提であるかのように考えてスタートしてしまうような議論に対しては、C なおさら警戒心をもって周到に臨まなければならないのではないだろうか。このような状況自体、特定の歴史的・文化的コンテクストの中で一定の価値観やイデオロギーに媒介されることによって成り立っているのだとすれば、そこでの「音楽化」や「芸術化」の動きの周辺にはたらいている力学や、そういう中で「音楽」や「芸術」の概念が形作られたり変容したりする過程やメカニズムを明確にすることこそが決定的に重要になってくるからである。
⑩ 問題のポイントを簡単に言うなら、「音楽」や「芸術」は決して最初から「ある」わけではなく、「なる」ものであるということになろう。それにもかかわらず、「音楽」や「芸術」という概念を繰り返し使っているうちに、それがいつの間にか本質化され、最初から「ある」かのような話にすりかわってしまい(ちょうど紙幣を繰り返し使っているうちに、それ自体に価値が具(そな)わっているかのように錯覚するようになってしまうのと同じである)、その結果は、気がついてみたら、「音楽は国境を越える」、「音楽で世界は一つ」という怪しげなグローバリズムの論理に取り込まれていたということにもなりかねないのである。
(渡辺裕(わたなべひろし)『サウンドとメディアの文化資源学 ―― 境界線上の音楽』による)
(注1)レクイエム ―― 死者の魂が天国に迎え入れられるよう神に祈るための曲。
(注2)LD ―― レーザーディスク。映像・音声の記録媒体の一つ。
(注3)ゲオルク・ショルティ ―― ハンガリー出身の指揮者、ピアニスト(1912―1997)。
(注4)ウィーン・フィル ―― ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のこと。
(注5)聖体拝領 ―― キリストの血と肉を象徴する葡萄(ぶどう)酒とパンを人々が受け取る儀式。
(注6)アクチュアルな ―― 今まさに直面している。
(注7)司式 ―― 教会の儀式をつかさどること。ここでは儀式そのものを指す。
この文章の構成・展開に関する説明として適当でないものを、次のうちから一つ選べ。
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問題
大学入学共通テスト(国語)試験 令和6年度(2024年度)本試験 問9(第1問(評論) 問9) (訂正依頼・報告はこちら)
① モーツァルトの没後200年の年となった1991年の、まさにモーツァルトの命日に当たる12月5日に、ウィーンの聖シュテファン大聖堂でモーツァルトの《レクイエム》(注1)の演奏が行われた(直後にLD(注2)が発売されている)。ゲオルク・ショルティ(注3)の指揮するウィーン・フィル(注4)、ウィーン国立歌劇場の合唱団などが出演し、ウィーンの音楽界の総力をあげた演奏でもあるのだが、ここで重要なのは、これがモーツァルトの没後200年を記念する追悼ミサという「宗教行事」であったということである。それゆえ、随所に聖書の朗読や祈りの言葉等、「音楽」ではない台詞(せりふ)の部分や聖体拝領(注5)などの様々な儀式的所作が割り込む形になる。まさに「音楽」でもあり「宗教行事」でもあるという典型的な例である。
② モーツァルトの《レクイエム》という音楽作品として聴こうとする人は、これをどのように認識するのか?あるCDショップのウェブサイトに(ア)ケイサイされているこの演奏のCDのレビュー欄には、「キリスト教徒でない並みの音楽好きには延々と続く典礼の割り込みには正直辟易(へきえき)としてくるのも事実。CDプレイヤーのプログラミング機能がカツ(イ)ヤクする」というコメントが見られる。これを「音楽」として捉えようとするこの聴き手が、音楽部分だけをつなぎ合わせてひとまとまりとして捉えるような認識の仕方をしているさまが彷彿(ほうふつ)としてくる。
③ それに対して、この(ウ)モヨオし物は「音楽」である以前に典礼であり、この聴き手のような本来のあり方を無視した聴き方は本末顚倒(てんとう)だとする立場も当然考えられる。こういうものは、典礼の全体を体験してこそその意味を正しく認識できるのであり、音楽部分だけつまみだして云々(うんぬん)するなどという聴き方は、あらゆる音楽を、コンテクストを無視してコンサートのモデルで捉える19世紀的なアク(エ)ヘイにすぎない、一刻も早く、そういう歪(ゆが)みを取り去って、体験の本来の姿を取り戻さなければならない、そういう主張である。
④ この主張はたしかに一面の真理ではあろう。だがここでの問題は、19世紀には音楽が典礼から自立したとか、それをまた、本来のコンテクストに戻す動きが生じているというような単純な二分法的ストーリーにおさまるものではない。もちろん、物事には見方によっていろいろな側面があるのは当然なのだから、音楽か典礼かというオールオアナッシングのような議論で話が片付かないのはあたりまえだが、何よりも重要なのは、ここでの問題が、音楽vs.典礼といった図式的な二項関係の説明にはおさまりきれない複合的な性格をもった、しかもきわめてアクチュアルな(注6)現代的問題を孕(はら)んでいるということである。
⑤ A これが典礼なのか、音楽なのかという問題は、実はかなり微妙である。たしかに、モーツァルトの命日を記念して聖シュテファン大聖堂で行われている追悼ミサであるという限りでは(オ)マギれもなく宗教行事であるには違いないが、ウィーン・フィルと国立歌劇場合唱団の大部隊が大挙してシュテファン大聖堂に乗り込んで来ているという段階で、すでにかなり異例な事態である。DVDの映像を見ても、前方の祭壇を中心に行われている司式(注7)を見る限りでは通常の「典礼」のようだが、通常の典礼にはない大規模なオーケストラと合唱団を後方に配置するために、聖堂の後ろにある通常の出入り口は閉め切られてしまっている。聖堂での通常の儀礼という範囲に到底おさまりきれないものになっているのだ。客(信徒と言うべきだろうか)もまた、典礼という限りでは、前の祭壇で行われている司式に注目するのが自然であり、実際椅子もそちら向きにセットされているのだが、背後から聞こえてくる音楽は、もはや典礼の一部をなす、というようなレベルをはるかにこえて、その音楽自体を「鑑賞」の対象にしている様子が窺(うかが)える(実際、映像を見ると、「客」が半ば後ろ向きになって、窮屈そうな様子で背後のオーケストラや合唱の方をみている様子が映し出されている)。
⑥ そして何といっても極めつきなのが、この典礼の映像がLD、DVDなどの形でパッケージ化されて販売され、私を含めた大多数の人々はその様子を、これらのメディアを通して体験しているという事実である。これはほとんど音楽的なメディア・イヴェントと言っても過言ではないものになっているのだが、ここで非常におもしろいのは、典礼という宗教行事よりもモーツァルトの「音楽作品」に焦点をあてるという方向性を推し進めた結果、典礼の要素が背景に退くのではなくかえって、典礼をも巻き込む形で全体が「作品化」され、「鑑賞」の対象になるような状況が生じているということである。
⑦ このことは、B 今「芸術」全般にわたって進行しつつある状況とも対応している。それは「博物館化」、「博物館学的欲望」などの語で呼ばれる、きわめて現代的な現象である。コンサートホール同様、19世紀にそのあり方を確立した美術館や博物館においては、様々な物品を現実のコンテクストから切り取って展示する、そのあり方が不自然だという批判が出てきた。たしかに、寺で信仰の対象として長いこと使われ、皆が頭をなでてすり減っているような仏像が、それ自体、美術的な、あるいは歴史的な価値をもつものとして、寺から持ち出されてガラスケースの中に展示され、それを遠くから鑑賞する、というような体験はとても不思議なものではある。最近ではその種の展示でも、単に「もの自体」をみせるのでなく、それが使われたコンテクスト全体をみせ、そのものが生活の中で使われている状況を可能な限りイメージさせるような工夫がなされたり、作家や作品そのものではなく、その背景になった時代全体を主題化した展覧会のようなものが増えたり、といった動きが進んできた。ところがそのことが、単に元のコンテクストに戻す、ということにとどまらない結果を生み出しているのである。
⑧ 美術館や博物館の展示が、物そのものにとどまらず、それを取り巻くコンテクストをも取り込むようになってきていることは、別の見方をすれば、かつては「聖域」として仕切られた「作品そのもの」の外に位置していたはずの現実の時空もろとも、美術館や博物館という「聖域」の中に引きずり込まれた状況であるとみることもできる。それどころか、19世紀以来、こうした場で育まれてきた「鑑賞」のまなざしが今や、美術館や博物館の垣根をのりこえて、町全体に流れ込むようになってきていると言ってよいかもしれない。ディズニーランドやハウステンボスは言うに及ばず、ウィーンでも京都でも、ベルリンや東京でも、いたるところに「歴史的町並み」風の場所が出現し、さながら町全体がテーマパーク化したような状況になっている。そういう場所で人々が周囲の景物に向けるまなざしは、たぶん美術館や博物館の内部で「物そのもの」に向けられていたものに近いものだろう。「博物館化」、「博物館学的欲望」といった語はまさに、そのような心性や状況を言い表そうとしているものである。これまで問題にしてきたシュテファン大聖堂での《レクイエム》のケースも、それになぞらえれば、単に音楽をコンサートから典礼のコンテクストに戻したのではなく、むしろ典礼そのものをもコンサート的なまなざしのうちに置こうとする人々の「コンサートホール的欲望」によって、コンサートの外なる場所であったはずの現実の都市の様々な空間が、どんどん「コンサートホール化」されている状況の反映と言い換えることができるように思われる。
⑨ 「音楽」や「芸術」の概念の話に戻り、今のそういう状況に重ね合わせて考え直してみるならば、この状況は、近代的なコンサートホールの展開と相関的に形成されてきた「音楽」や「芸術」に向けるまなざしや聴き方が今や、その外側にまであふれ出てきて、かつてそのような概念の適用範囲外にあった領域にまでどんどん浸食してきている状況であると言いうるだろう。逆説的な言い方になるが、一見したところ「音楽」や「芸術」という伝統的な概念や枠組みが解体、多様化しているようにみえる状況と裏腹に、むしろコンサートホールや美術館から漏れ出したそれらの概念があらゆるものの「音楽化」や「芸術化」を促進しているように思われるのである。だがそうであるならば、「音楽」や「芸術」という概念が自明の前提であるかのように考えてスタートしてしまうような議論に対しては、C なおさら警戒心をもって周到に臨まなければならないのではないだろうか。このような状況自体、特定の歴史的・文化的コンテクストの中で一定の価値観やイデオロギーに媒介されることによって成り立っているのだとすれば、そこでの「音楽化」や「芸術化」の動きの周辺にはたらいている力学や、そういう中で「音楽」や「芸術」の概念が形作られたり変容したりする過程やメカニズムを明確にすることこそが決定的に重要になってくるからである。
⑩ 問題のポイントを簡単に言うなら、「音楽」や「芸術」は決して最初から「ある」わけではなく、「なる」ものであるということになろう。それにもかかわらず、「音楽」や「芸術」という概念を繰り返し使っているうちに、それがいつの間にか本質化され、最初から「ある」かのような話にすりかわってしまい(ちょうど紙幣を繰り返し使っているうちに、それ自体に価値が具(そな)わっているかのように錯覚するようになってしまうのと同じである)、その結果は、気がついてみたら、「音楽は国境を越える」、「音楽で世界は一つ」という怪しげなグローバリズムの論理に取り込まれていたということにもなりかねないのである。
(渡辺裕(わたなべひろし)『サウンドとメディアの文化資源学 ―― 境界線上の音楽』による)
(注1)レクイエム ―― 死者の魂が天国に迎え入れられるよう神に祈るための曲。
(注2)LD ―― レーザーディスク。映像・音声の記録媒体の一つ。
(注3)ゲオルク・ショルティ ―― ハンガリー出身の指揮者、ピアニスト(1912―1997)。
(注4)ウィーン・フィル ―― ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のこと。
(注5)聖体拝領 ―― キリストの血と肉を象徴する葡萄(ぶどう)酒とパンを人々が受け取る儀式。
(注6)アクチュアルな ―― 今まさに直面している。
(注7)司式 ―― 教会の儀式をつかさどること。ここでは儀式そのものを指す。
この文章の構成・展開に関する説明として適当でないものを、次のうちから一つ選べ。
- ①段落は、議論の前提となる事例をその背景や補足情報とともに提示して導入を図っており、②・③段落は、①段落で提示された事例について説明しながら二つの異なる立場を紹介している。
- ④段落は、②・③段落で紹介された立場を基に問題を提起しており、⑤・⑥段落は、④段落で提起された問題についてより具体的な情報を付け加えた上で議論の方向づけを行っている。
- ⑦段落は、前段落までの議論をより一般的な事例を通して検討し直すことで新たに別の問題への転換を図っており、⑧段落は、⑦段落から導き出された観点を基に筆者の見解を提示している。
- ⑨段落は、⑦・⑧段落で導き出された観点に基づいて問題点を指摘しており、⑩段落は、その問題点を簡潔に言い換えつつ⑨段落の議論から導かれた筆者の危惧を示している。
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この過去問の解説 (3件)
01
長めの文章の読解には、全体としてどのように議論が進んでいるかという構造を掴むことが大変役に立ちます。
バックグラウンドの違う他者を納得させるためにはある一定の過程を踏むことが暗黙の了解にあるからです。
著者と対話するように文章の構造を見てみましょう。
適当です。
①ではモーツァルトの追悼レクイエムについての基本情報と注目すべき点について説明されており、読者を議論の始点に立たせる役割を担っています。
筆者の意見では《レクイエム》は音楽でもあり典礼でもあるというものですが②、③では敢えて二項対立的な見方を紹介しています。
異なる意見の存在を認めたうえで持論を展開することは、一つの意見のみ取り上げるより説得性が増します。
適当です。
④段落では②・③段落の相異なる意見を紹介した後にその2つを統合し高位な次元の主張をしています。
⑤・⑥段落では④段落を深く掘り下げていき、さらにその中で重要とされる要素を提示しています。
誤りです。
「別の問題への転換」ではなく、⑦段落以前の議論をさらに拡張する方向へ進んでいます。
また⑧段落では多くの具体例とともに⑦段落の末尾に現れた見解を補強し続く⑨段落の抽象度の高い議論についていけるような素地を作る役割を担っています。
適当です。
「鑑賞」の眼差しが美術館やコンサートホールの外へ無批判のうちに適用されるようになった結果、様々なものが「芸術」であるがゆえにその価値を自明のものとして保護される事態が起こっている現在の状況に筆者は警鐘を鳴らしています。
こうした抽象論を用いた主張は⑩段落では貨幣の価値やグローバリズムの例えを用いて具象の側から再び説明されています。
段落同士の関係を考える際には、詳細な記述の意味に囚われるとかえって解答への道筋を見失います。
接続詞や前段落との関係に注目しながら適度に抽象的に捉えましょう。
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02
「適当でないもの」を選択する問題ですので、引っかからないよう注意しましょう。
適当です。
段落①では、⦅レクイエム⦆の具体的な事例を用いて始めており、結果としてそれは本文全体で述べられる議論の導入となる内容といえるでしょう。
段落②・③においても、「音楽」か「典礼」か、という異なる二つの立場から述べており、本文の構成と合致します。
適当です。
段落②・③で、「音楽」か「典礼」かという二つの立場を述べた後、段落④ではそれを受けて「単純な二分法的ストーリーにはおさまらない」と、主張を提起しています。
この④での主張を段落⑤で引き継いで説明しており、また段落⑥で「極めつきなのが」と段落⑤の内容を補強していますので、段落⑤⑥は、段落④を具体化し主張を明確にするパートだといえます。
不適当です。⑦段落は、「新たに別の問題への転換を図って」いるわけではありません。
段落⑦の初めの一文に着目すると、段落⑥で述べられた「音楽」と「典礼」の問題は、「芸術全般」の状況にも対応している、という風に話を展開させています。
「別の問題へ転換」しているわけではなく、これまでの話を、「芸術全般」の話へ当てはめ、話題を広げているわけですので、この選択肢は不適当です。
適当です。
段落⑨は、⑦・⑧で述べた、芸術に対するまなざしが美術館等の外側に及んでいる状況に対して、そのような状況下で芸術が自明のものと認識してしまうことに対して警告しています。
またさらに段落⑩では、「問題のポイントを簡単に」言い換えつつ、改めてその問題点について述べる構成となっています。
本文の構成を意識することは、論の要旨を捉える方法として非常に有効で、他の問題を解く上でも役に立ちます。
このような構成を問う問題でなくても、問題を解く上でのヒントになりますので、常に意識して学習すると良いでしょう。
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03
正しい選択肢(=文章の構成・展開の説明として適当でないもの)は、「⑦段落は、前段落までの議論をより一般的な事例を通して検討し直すことで新たに別の問題への転換を図っており、⑧段落は、⑦段落から導き出された観点を基に筆者の見解を提示している。」です。
⑦段落は、美術館や博物館に話題を広げつつも、あくまで①〜⑥段落で扱った《レクイエム》の事例を敷衍して「博物館化」という同一線上の問題を深めているだけで、別の問題へ転換しているわけではありません。また、⑧段落も筆者の最終的な見解というより、⑦段落の内容をさらに具体化している説明段落です。したがって、構成の実態と合わないため「適当でない」と判断できます。
①段落〜③段落に関する説明
①段落が《レクイエム》追悼ミサという事例を導入し、②段落が「音楽作品として聴く立場」、③段落が「典礼として体験すべきだとする立場」を紹介しているという流れは本文と一致しています。
④段落〜⑥段落に関する説明
④段落が「音楽か典礼か」という二分法では捉えきれないという問題提起を行い、⑤・⑥段落がその複雑さを示す追加情報(大規模編成やメディア化)を加えて議論の方向づけをしている点も本文通りです。
⑦段落・⑧段落に関する説明(不適当)
⑦段落は「博物館化」を通じて話題を一般化しつつ、依然として同じ問題系を掘り下げています。⑧段落はその状況が都市空間にまで広がる様子を説明している段落で、筆者の最終的な主張を示す位置にはありません。この説明だけ本文構成とずれています。
⑨段落・⑩段落に関する説明
⑨段落が「音楽」や「芸術」の概念が領域を超えて浸食している現状に警鐘を鳴らし、⑩段落がそのポイントを短く言い換えつつ本質化への危惧を示している流れは本文に合致しています。
本文は、特定の《レクイエム》演奏を起点に「音楽」「芸術」「典礼」の境界が揺らぐ現代的状況を論じ、段落ごとに
1.具体例の提示
2.二つの相反する立場の紹介
3.問題提起と事例の深掘り
4.博物館化という一般化
5.概念全体への警鐘
という流れで展開します。誤っている説明は、この中で⑦・⑧段落が“別の問題への転換”と位置付けられている点であり、実際には一貫したテーマの延長として扱われています。
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