共通テスト(国語) 過去問
令和7年度(2025年度)本試験
問12 (第2問(小説) 問2)
問題文
次の文章は、蜂飼耳(はちかいみみ)「繭の遊戯」(2005年発表)の一節である。周囲の大人たちから「厄介者」扱いされている「おじさん」は、小屋に籠もって何かを作っていることが多かった。その小屋に幼いころの「わたし」はよく遊びに行っていた。これを読んで、後の問いに答えよ。なお、設問の都合で本文の段落に①〜⑱の番号を付してある。
① 壁に、ギターが掛けられていた。触りたい。「あれ取って」。すぐには取ってもらえない。「あれ、取ってよ。ちょっとだけ」。おじさんは、取るかどうかわざと迷うふりをしながら、金具を外しギターを下ろす。受け取り、抱えてみる。鳴らしてみる。どんなメロディーにもなりはしない。つまらないというより、不安だった。自分でばら撒(ま)いたおかしな音に、自分で不安になるのだった。「返す」「もう、いいの」。
② なにか弾いてよ。頼むと弾いてくれる。いつも同じ曲だ。最後まで全部、聞いたことはない。いつも途中で、「あれ」と首を傾(かし)げる。「あれ、あれ」。凧(たこ)が落下するときのように、見えない糸が不意に弛(ゆる)みはじめて、ぷつんと止まる。「あれ、わからなくなった」。いつものことだが、いつも、がっかりする。Ⅰがっかり、という気もちには、かわいそうだ、と思う気もちが混ざっていた。生意気にも。五つや六つの子どもでも、そうしてこっそり、大人を哀れむときがあるのだ。
③ 気まずくなり、いつも同じ質問をする。「なんていう曲」。つづきがわからないということは、どちらにもわかっていて、暗黙の了解なのに、おじさんは目を泳がせて、A音を探すふりをする。心をこめるように爪弾く。(注1)「アルハンブラの思い出だよ」。アルハンブラってなに、とは聞けなかった。思い出というからには、人の名前だろう。きっと女の人の名前だ。そう思いこみ、恥ずかしさに密封されて、聞けないのだった。
④ おじさんが厄介者にされているのは、仕事をしてお金を稼ぐということをしないからだった。とはいえ、働かなくても済むような資産があるわけではない。ときどき、トラックの運転手などをして、そのときに必要な分だけ稼ぐのだった。いまでいうところのフリーターだ。快く思わない人は親戚中にいて、誰彼と顔を合わせるたび、叱られているようだった。ちゃんと仕事しなさい。もっとも口うるさいのは、おじさんの姉、つまり、わたしの母だった。説教がはじまれば、早く終わらないかな、とうんざりして、柱の陰から見ていた。大人に怒られる大人は、子どものようなものだった。おじさんは大人なのに、と悔しかった。
⑤ いったい、なにをしているのだろう、おじさんは。不思議だった。というのは、いつでも、忙しそうにしているからだ。自分で建てた小屋という繭に籠(こも)り、でも、眠ってはいない。じっとしてはいない。いつも、くるくると動きまわっている。器械をいじったり、なにか組み立てたり、切ったり、削ったりと。不思議だった。「なにしてるの」と聞けば必ず、「仕事」という答えが返ってくる。いつもなにかを作っているようだったが、その成果が見えるかたちで現れることは滅多(めった)にないのだった。
⑥ 「いつまでも親のスネかじって」。ある日、おじさんの姉、つまり、わたしの母が大声を上げて怒りはじめた。おじさんは耳が聞こえなくなった鳥のように、なにもかも無視して、(注2)母屋からすっと抜けて行った。「お母さん、なんとかいってよ」「いってるよ、いつも」「お母さんが甘いからよ」「もうわかった、あたしが死ねばいいんでしょ、じゃあ、死ぬよ」。祖母は罵りながら、豆の殻を剥(む)いた。豆の匂いは喧嘩(けんか)の匂い。いやになり、庭へ出て、小屋へと歩く。夜風がある。(注3)南天の繁(しげ)みがあたまを振る。重たくざわつく。闇のなかに四角く切り取られたおじさんの窓。叩(たた)く。聞こえないのかな。重たくざわつく南天の繁み。もう少し強く叩く。
⑦ 「あたしだよ」。ほそく開いた。閉じこめられた虎のように、外のようすを窺(うかが)う。「おばあちゃんたち、喧嘩してるよ」。おじさんのせいだよ、とは口にしない。おじさんは、わたしがなにか企(たくら)んでいないかどうか、じいっと目をほそめて観察する。わたしはその瞬間的な観察に耐える。なにもないとわかると、上げてくれた。小屋のなかは、いつもインドの匂いがした。アルハンブラがわからないと同様、インドもよくわからなかった。インドで買ってきたんだ、と見せてくれたお香の包みの上で、目ばかり大きな赤い顔、青い顔が見つめ合っている。「手がいっぱいあって怖い」「神さまだよ」「これが」「インドの」。
⑧ 仏壇に立てられるものより、ずっと長くて甘やかな香りのお香をもくもくと焚(た)き、おじさんは緑色の瓶の液体を飲んでいた。「それなに」(注4)「シードル」「飲みたいな」「子どもの飲み物じゃないよ」「ちょっとだけ」。シードルを固まりのように飲みこんで、おじさんはため息をつく。シードルを舐(な)めて、わたしもため息をついた。おじさんに隠して。擦り切れたカーペットの上に、さまざまな色のガラスの欠片(かけら)。赤、青、黄、緑、ピンク、紫、だいだい、縞(しま)模様。そばには、作りかけのランプの笠(かさ)のようなもの。
⑨ 「そうだ、これ、どう思う」。ベッドの隅に腰掛けていたおじさんが、力なく立ち上がる。緊張する。意見を求められることなど、はじめてだったからだ。汚れた壁と黒い本棚の隙間から引き出されたのはステンドグラスの絵だった。ガラスはすべて嵌(は)めこまれ、完成品のようだった。鳥が二羽、空を渡っていくところ。「どう思う。わかるかな、鶴だけど」。
⑩ 五つや六つの子どもの目にも、その鶴にはなにか足りないと、わかった。鶴というより、もっとずんぐりした鳥に見える。翼をもう少しほそく長くしたら、いいのではないか。子どもの目にも、そんな意見が浮かぶほど、なにかが欠けていた。いま思うと、つまり、切れがなかったのだ。「悪くないよね」と、おじさん。いい、といってほしいのか。それとも、子どもは思った通りを口にすると期待して、本当の意見を待っているのか、わからない。そこのところがわからなかった。「悪くないでしょ」。Bそのとき、わたしのなかでむくむくと目を覚ましたのは、母に似たものだった。
⑪ 「あひるみたい」。おじさんの顔が内側から崩れる。「鶴ってもっと、スマートだよ」。崩れる。思いがけないほど、あっさりと。それを見ると、取り返しのつかないことをした、という気もちになった。同時に満足だった。いいと思わないものを、いいとはいえない。いってはいけない。これで嫌われるのなら、それはそれでしかたないと、にわかに強気になり、息を吐いた。満足と孤独。しのびこんだ蛾が、押せない窓を押して暴れ、しきりに乾いた音を立てる。そのとき、わたしはなにかを、教えられていたのだ。でも、そういう考えをひろげることはできず、なにか大事なものを自分で探り当てたつもりになり、昂揚(こうよう)していた。おじさんの手にこびりつく、石鹸(せっけん)では落とせない塗料。眠くなったふりをして、小屋を出た。
⑫ それからしばらくして、今度は陶芸の虫が、おじさんに取り憑(つ)いた。どこから土を運んで来るのか、周りが気づいたときにはもう、小屋の入口(いりぐち)に敷いた古いビニールシートの上に、大小の器がいくつもならんでいた。「あんなに器用なんだったら、少しは活(い)かせばいいようなものだけど。」母がいないとき祖母はそんなふうに呟(つぶや)いた。でも、母がいて、母に責められるときには、決してそうはいわない。「だって、あたしが産んだんだから、どうしようもない」という。「焼き物をやるっていっても、なにも習わないで、そんな我流でやっているだけじゃどうしようもない、仕事になんかならない」と、母。
⑬ 五つや六つの子どもにとって、大人は二種類に分かれる。遊んでくれる人と、そうでない人。おじさんは遊んでくれるばかりか、いつもなにかを熱心に作っていた。他の大人たちが心配してため息をつくほど無力だとは、思えないのだった。小屋の陰にしゃがんで蟻(あり)の巣を見ていると、壁を通して、削ったり切ったりする音が漏れ出てくる。おじさんは確かに、なにかしている。それだけは、わかった。
⑭ 「ちょっと、ちょっと」。池のそばに座りこみ、(注5)ゲンゴロウを探していたら、おじさんに呼ばれた。小屋の窓が開き、意に反して閉じこめられた虎のように、手招きする。ゲンゴロウは見つからない。金魚が上がってきて静かな水面へ口をつけ、波紋をひろげる。ひょっとすると、どこかへ飛んでいったかなゲンゴロウ、と思いながら答える。「いま行く」。見せたいものがあるか、用をいいつけるか、どちらかだ。
⑮ 小屋を覗(のぞ)いて、おどろいた。奇妙なかたちの白いものが、整列している。どれにも穴がずらりと開いていて、笛かな、と思う。(注6)「オカリナだよ」。乾かしているのだった。「こんなにたくさん作ったの」というと、「売るんだ」。秘密の計画を打ち明けて、声をひそめた。「だけど、ちゃんと鳴るの」「鳴るよ、もちろん」。信用しないでいると、おじさんは「試作品」といって、箱のなかから、完成した水色のオカリナを取り出した。両手で持って、口をつける。迷子の梟(ふくろう)のような音。塗られた水色の濃淡は、模様のようにも、ただの斑(むら)のようにも見える。きれいかどうかわからない布で吹き口を拭い、わたしに渡した。
⑯ 吹く。鳴ることは鳴る。でも、ばらばらの音。「これ見ればわかるよ」といって、おじさんはこまかく折った紙切れを出した。(注7)運指法が載っていたが、見てもよくわからなかった。ただ鳴らしているだけでも、三つ四つの音階に、たどり着くことはできる。欲しくなった。「ちょうだい」と頼むと、その願いを聞き入れるかどうか深く悩む、というふりをしながら、「じゃあ、あげよう」。それから、取り出される別の木箱。古びた木箱色のついたオカリナが、いくつも息を殺して夜明けの玉子のようにじっとしていた。「いっぱいあるから」。勝ち誇ったようにわらう。
⑰ Ⅱすごい、と思いながら、がっかりした。こんなふうに自分の手でオカリナを作ることができても、オカリナを作れない他の大人たちから、怒られつづけ、文句をいわれつづけるのか、と。拾った枝で池の水を掻(か)きまわしながら、あたまを悩ませた。他の人たちから見れば意味が薄いことを、自分の熱意だけでつづける。どこへ繋(つな)がっていくのか、わかりもしないまま。C触角の取れた虫。方向感覚を破壊された鳥。それは、どういうことなのだろう、と。おじさんの心配をしながら、自分も晴れない霧につつまれた。オカリナどころか、なにも作れない自分は、どうすればいいんだろう、と。
⑱ だれもいないところへ行って、オカリナを吹く。D曲にはならない。ただ、ばらばらの音。吹いていると、身体の表面が分厚く剥がれ落ちる気がする。それを拾い集めるべきかどうか、わからない。捨てておいていい、殻のようなものかもしれない。おじさんは、たくさんのオカリナを、バザーで売るというのだった。運指法の説明もつけて、とそれがすごいアイデアであるかのように、いうのだった。
(注1)アルハンブラの思い出 ――― ギターの曲名。アルハンブラはスペインにある宮殿の名前。
(注2)母屋 ――― 住居のなかで、生活の主な場となっている建物。
(注3)南天 ――― 小さな赤い実をつける低木。
(注4)シードル ――― リンゴの果汁を発酵させた発泡酒。
(注5)ゲンゴロウ ――― 池や沼にすむ昆虫。
(注6)オカリナ ――― 鳥の形を模した土製の笛。
(注7)運指法 ――― 楽器を演奏するときの指の運び方。
下線部B「そのとき、わたしのなかでむくむくと目を覚ましたのは、母に似たものだった。」とあるが、このときの「わたし」に起こった心の動きの説明として最も適当なものを、次の選択肢のうちから一つ選べ。
このページは閲覧用ページです。
履歴を残すには、 「新しく出題する(ここをクリック)」 をご利用ください。
問題
反映中…
共通テスト(国語)試験 令和7年度(2025年度)本試験 問12(第2問(小説) 問2) (訂正依頼・報告はこちら) (新しいタブで開く)
次の文章は、蜂飼耳(はちかいみみ)「繭の遊戯」(2005年発表)の一節である。周囲の大人たちから「厄介者」扱いされている「おじさん」は、小屋に籠もって何かを作っていることが多かった。その小屋に幼いころの「わたし」はよく遊びに行っていた。これを読んで、後の問いに答えよ。なお、設問の都合で本文の段落に①〜⑱の番号を付してある。
① 壁に、ギターが掛けられていた。触りたい。「あれ取って」。すぐには取ってもらえない。「あれ、取ってよ。ちょっとだけ」。おじさんは、取るかどうかわざと迷うふりをしながら、金具を外しギターを下ろす。受け取り、抱えてみる。鳴らしてみる。どんなメロディーにもなりはしない。つまらないというより、不安だった。自分でばら撒(ま)いたおかしな音に、自分で不安になるのだった。「返す」「もう、いいの」。
② なにか弾いてよ。頼むと弾いてくれる。いつも同じ曲だ。最後まで全部、聞いたことはない。いつも途中で、「あれ」と首を傾(かし)げる。「あれ、あれ」。凧(たこ)が落下するときのように、見えない糸が不意に弛(ゆる)みはじめて、ぷつんと止まる。「あれ、わからなくなった」。いつものことだが、いつも、がっかりする。Ⅰがっかり、という気もちには、かわいそうだ、と思う気もちが混ざっていた。生意気にも。五つや六つの子どもでも、そうしてこっそり、大人を哀れむときがあるのだ。
③ 気まずくなり、いつも同じ質問をする。「なんていう曲」。つづきがわからないということは、どちらにもわかっていて、暗黙の了解なのに、おじさんは目を泳がせて、A音を探すふりをする。心をこめるように爪弾く。(注1)「アルハンブラの思い出だよ」。アルハンブラってなに、とは聞けなかった。思い出というからには、人の名前だろう。きっと女の人の名前だ。そう思いこみ、恥ずかしさに密封されて、聞けないのだった。
④ おじさんが厄介者にされているのは、仕事をしてお金を稼ぐということをしないからだった。とはいえ、働かなくても済むような資産があるわけではない。ときどき、トラックの運転手などをして、そのときに必要な分だけ稼ぐのだった。いまでいうところのフリーターだ。快く思わない人は親戚中にいて、誰彼と顔を合わせるたび、叱られているようだった。ちゃんと仕事しなさい。もっとも口うるさいのは、おじさんの姉、つまり、わたしの母だった。説教がはじまれば、早く終わらないかな、とうんざりして、柱の陰から見ていた。大人に怒られる大人は、子どものようなものだった。おじさんは大人なのに、と悔しかった。
⑤ いったい、なにをしているのだろう、おじさんは。不思議だった。というのは、いつでも、忙しそうにしているからだ。自分で建てた小屋という繭に籠(こも)り、でも、眠ってはいない。じっとしてはいない。いつも、くるくると動きまわっている。器械をいじったり、なにか組み立てたり、切ったり、削ったりと。不思議だった。「なにしてるの」と聞けば必ず、「仕事」という答えが返ってくる。いつもなにかを作っているようだったが、その成果が見えるかたちで現れることは滅多(めった)にないのだった。
⑥ 「いつまでも親のスネかじって」。ある日、おじさんの姉、つまり、わたしの母が大声を上げて怒りはじめた。おじさんは耳が聞こえなくなった鳥のように、なにもかも無視して、(注2)母屋からすっと抜けて行った。「お母さん、なんとかいってよ」「いってるよ、いつも」「お母さんが甘いからよ」「もうわかった、あたしが死ねばいいんでしょ、じゃあ、死ぬよ」。祖母は罵りながら、豆の殻を剥(む)いた。豆の匂いは喧嘩(けんか)の匂い。いやになり、庭へ出て、小屋へと歩く。夜風がある。(注3)南天の繁(しげ)みがあたまを振る。重たくざわつく。闇のなかに四角く切り取られたおじさんの窓。叩(たた)く。聞こえないのかな。重たくざわつく南天の繁み。もう少し強く叩く。
⑦ 「あたしだよ」。ほそく開いた。閉じこめられた虎のように、外のようすを窺(うかが)う。「おばあちゃんたち、喧嘩してるよ」。おじさんのせいだよ、とは口にしない。おじさんは、わたしがなにか企(たくら)んでいないかどうか、じいっと目をほそめて観察する。わたしはその瞬間的な観察に耐える。なにもないとわかると、上げてくれた。小屋のなかは、いつもインドの匂いがした。アルハンブラがわからないと同様、インドもよくわからなかった。インドで買ってきたんだ、と見せてくれたお香の包みの上で、目ばかり大きな赤い顔、青い顔が見つめ合っている。「手がいっぱいあって怖い」「神さまだよ」「これが」「インドの」。
⑧ 仏壇に立てられるものより、ずっと長くて甘やかな香りのお香をもくもくと焚(た)き、おじさんは緑色の瓶の液体を飲んでいた。「それなに」(注4)「シードル」「飲みたいな」「子どもの飲み物じゃないよ」「ちょっとだけ」。シードルを固まりのように飲みこんで、おじさんはため息をつく。シードルを舐(な)めて、わたしもため息をついた。おじさんに隠して。擦り切れたカーペットの上に、さまざまな色のガラスの欠片(かけら)。赤、青、黄、緑、ピンク、紫、だいだい、縞(しま)模様。そばには、作りかけのランプの笠(かさ)のようなもの。
⑨ 「そうだ、これ、どう思う」。ベッドの隅に腰掛けていたおじさんが、力なく立ち上がる。緊張する。意見を求められることなど、はじめてだったからだ。汚れた壁と黒い本棚の隙間から引き出されたのはステンドグラスの絵だった。ガラスはすべて嵌(は)めこまれ、完成品のようだった。鳥が二羽、空を渡っていくところ。「どう思う。わかるかな、鶴だけど」。
⑩ 五つや六つの子どもの目にも、その鶴にはなにか足りないと、わかった。鶴というより、もっとずんぐりした鳥に見える。翼をもう少しほそく長くしたら、いいのではないか。子どもの目にも、そんな意見が浮かぶほど、なにかが欠けていた。いま思うと、つまり、切れがなかったのだ。「悪くないよね」と、おじさん。いい、といってほしいのか。それとも、子どもは思った通りを口にすると期待して、本当の意見を待っているのか、わからない。そこのところがわからなかった。「悪くないでしょ」。Bそのとき、わたしのなかでむくむくと目を覚ましたのは、母に似たものだった。
⑪ 「あひるみたい」。おじさんの顔が内側から崩れる。「鶴ってもっと、スマートだよ」。崩れる。思いがけないほど、あっさりと。それを見ると、取り返しのつかないことをした、という気もちになった。同時に満足だった。いいと思わないものを、いいとはいえない。いってはいけない。これで嫌われるのなら、それはそれでしかたないと、にわかに強気になり、息を吐いた。満足と孤独。しのびこんだ蛾が、押せない窓を押して暴れ、しきりに乾いた音を立てる。そのとき、わたしはなにかを、教えられていたのだ。でも、そういう考えをひろげることはできず、なにか大事なものを自分で探り当てたつもりになり、昂揚(こうよう)していた。おじさんの手にこびりつく、石鹸(せっけん)では落とせない塗料。眠くなったふりをして、小屋を出た。
⑫ それからしばらくして、今度は陶芸の虫が、おじさんに取り憑(つ)いた。どこから土を運んで来るのか、周りが気づいたときにはもう、小屋の入口(いりぐち)に敷いた古いビニールシートの上に、大小の器がいくつもならんでいた。「あんなに器用なんだったら、少しは活(い)かせばいいようなものだけど。」母がいないとき祖母はそんなふうに呟(つぶや)いた。でも、母がいて、母に責められるときには、決してそうはいわない。「だって、あたしが産んだんだから、どうしようもない」という。「焼き物をやるっていっても、なにも習わないで、そんな我流でやっているだけじゃどうしようもない、仕事になんかならない」と、母。
⑬ 五つや六つの子どもにとって、大人は二種類に分かれる。遊んでくれる人と、そうでない人。おじさんは遊んでくれるばかりか、いつもなにかを熱心に作っていた。他の大人たちが心配してため息をつくほど無力だとは、思えないのだった。小屋の陰にしゃがんで蟻(あり)の巣を見ていると、壁を通して、削ったり切ったりする音が漏れ出てくる。おじさんは確かに、なにかしている。それだけは、わかった。
⑭ 「ちょっと、ちょっと」。池のそばに座りこみ、(注5)ゲンゴロウを探していたら、おじさんに呼ばれた。小屋の窓が開き、意に反して閉じこめられた虎のように、手招きする。ゲンゴロウは見つからない。金魚が上がってきて静かな水面へ口をつけ、波紋をひろげる。ひょっとすると、どこかへ飛んでいったかなゲンゴロウ、と思いながら答える。「いま行く」。見せたいものがあるか、用をいいつけるか、どちらかだ。
⑮ 小屋を覗(のぞ)いて、おどろいた。奇妙なかたちの白いものが、整列している。どれにも穴がずらりと開いていて、笛かな、と思う。(注6)「オカリナだよ」。乾かしているのだった。「こんなにたくさん作ったの」というと、「売るんだ」。秘密の計画を打ち明けて、声をひそめた。「だけど、ちゃんと鳴るの」「鳴るよ、もちろん」。信用しないでいると、おじさんは「試作品」といって、箱のなかから、完成した水色のオカリナを取り出した。両手で持って、口をつける。迷子の梟(ふくろう)のような音。塗られた水色の濃淡は、模様のようにも、ただの斑(むら)のようにも見える。きれいかどうかわからない布で吹き口を拭い、わたしに渡した。
⑯ 吹く。鳴ることは鳴る。でも、ばらばらの音。「これ見ればわかるよ」といって、おじさんはこまかく折った紙切れを出した。(注7)運指法が載っていたが、見てもよくわからなかった。ただ鳴らしているだけでも、三つ四つの音階に、たどり着くことはできる。欲しくなった。「ちょうだい」と頼むと、その願いを聞き入れるかどうか深く悩む、というふりをしながら、「じゃあ、あげよう」。それから、取り出される別の木箱。古びた木箱色のついたオカリナが、いくつも息を殺して夜明けの玉子のようにじっとしていた。「いっぱいあるから」。勝ち誇ったようにわらう。
⑰ Ⅱすごい、と思いながら、がっかりした。こんなふうに自分の手でオカリナを作ることができても、オカリナを作れない他の大人たちから、怒られつづけ、文句をいわれつづけるのか、と。拾った枝で池の水を掻(か)きまわしながら、あたまを悩ませた。他の人たちから見れば意味が薄いことを、自分の熱意だけでつづける。どこへ繋(つな)がっていくのか、わかりもしないまま。C触角の取れた虫。方向感覚を破壊された鳥。それは、どういうことなのだろう、と。おじさんの心配をしながら、自分も晴れない霧につつまれた。オカリナどころか、なにも作れない自分は、どうすればいいんだろう、と。
⑱ だれもいないところへ行って、オカリナを吹く。D曲にはならない。ただ、ばらばらの音。吹いていると、身体の表面が分厚く剥がれ落ちる気がする。それを拾い集めるべきかどうか、わからない。捨てておいていい、殻のようなものかもしれない。おじさんは、たくさんのオカリナを、バザーで売るというのだった。運指法の説明もつけて、とそれがすごいアイデアであるかのように、いうのだった。
(注1)アルハンブラの思い出 ――― ギターの曲名。アルハンブラはスペインにある宮殿の名前。
(注2)母屋 ――― 住居のなかで、生活の主な場となっている建物。
(注3)南天 ――― 小さな赤い実をつける低木。
(注4)シードル ――― リンゴの果汁を発酵させた発泡酒。
(注5)ゲンゴロウ ――― 池や沼にすむ昆虫。
(注6)オカリナ ――― 鳥の形を模した土製の笛。
(注7)運指法 ――― 楽器を演奏するときの指の運び方。
下線部B「そのとき、わたしのなかでむくむくと目を覚ましたのは、母に似たものだった。」とあるが、このときの「わたし」に起こった心の動きの説明として最も適当なものを、次の選択肢のうちから一つ選べ。
横にスクロールして続きを読む(本文にフォーカスして左右キー)。
- 自分の作品に不足している点がないかを気にしているおじさんが情けなくなり、あえて厳しい意見を述べておじさんに反省を迫りたいと思った。
- 作品の出来の良さを疑わず高い評価を期待するおじさんに違和感が芽ばえ、よい作品ではないという意見を相手を傷つけてでも伝えたいと思った。
- 自分の作品に自信がない様子であるおじさんにいらだちを覚え、作品の出来ばえに対する失望感からも自分が気づいた欠点を告げようと思った。
- 作品の完成度が高くないにもかかわらずよい評価を求めるおじさんに現実を突きつけたい気持ちが生じ、感じたことを率直に伝えようと思った。
正解!素晴らしいです
残念...
画像拡大
この過去問の解説 (3件)
01
傍線部の前に『いい、といってほしいのか。それとも、子どもは思った通りを口にすると期待して、本当の意見を待っているのか、わからない。そこのところがわからなかった。「悪くないでしょ」』とあるように、「わたし」はどう評価してよいものかわからないなかで、「おじさん」は少なくとも肯定的な評価を期待していたことがうかがえます。
次に、傍線部の「母に似たもの」が何を指すかですが、ここで「わたし」の母は「おじさん」に辛く当たって、働きなさいなどと厳しい言葉を投げかけていることから、少なくとも母同様の辛口な意見を「わたし」がここでは持つようになった、程度に解しておけば良いかと思います。
よって、これらの点を備えている解答は「作品の完成度が高くないにもかかわらずよい評価を求めるおじさんに現実を突きつけたい気持ちが生じ、感じたことを率直に伝えようと思った。」となります。
後半の「おじさんに反省を迫りたい」というのが、母親に似たような感情として捉えていいものかどうか、やや疑問が残ります。反省とまで言っていいものかどうか…とはいえ、ここはすぐに不適とまでは言えないかもしれません。
しかし、前半部の「自分の作品に不足している点がないかを気にしている」は、たしかにそのように気にしているかもしれませんが、「悪くないでしょ」という「おじさん」の発言の解釈としてはややズレていることが明らかかと思います。よってその部分を見ればはっきりと不適です。
「母に似たもの」が湧き上がってきたことを、「相手を傷つけても伝えたい」と解するのは本文の記述とずれており、不適です。
本文では「わたし」が言い終わったあとにこのように描写されています。
「取り返しのつかないことをした、という気もちになった。同時に満足だった。いいと思わないものを、いいとはいえない。いってはいけない。これで嫌われるのなら、それはそれでしかたないと。」
ここでわかることは自分が嫌われても仕方がない、という考えであって、相手を傷つけても…とは述べられていません。
「自分の作品に自信がない様子」が「悪くないでしょ」というおじさんの発言の解釈として適当かどうかというところが問題です。
ある種の謙遜とその裏返しとしての、実は自信がないことの表れ…として、この「悪くないでしょ」という発言を読み取れないこともないですが、共通テスト国語の問題ではそのような本文に書かれていないことを深読みするのは「邪推」になってしまいます。
本文の通りにそのまま文言を受け取り、おじさんは自分の作品を悪くない、良い作品だと思っている、と受け取りましょう。そうすると、この「自分の作品に自信がない様子」は不適です。
共通テストの小説問題では書かれているままの通りに読むということが求められます。つい「裏の気持ち」のようなものを考えたくなりますが、その気持ちをむしろ抑えて、書かれているとおりに解している選択肢の方が正解であることが多いということを念頭に置いて解きましょう。
参考になった数1
この解説の修正を提案する (新しいタブで開く)
02
下線部Bの前後の文章から、
おじさんが自分の作品をどう思っているかと、
わたしのおじさんに対する気持ちが分かる部分を見つけ、
そこから読み取れることが書かれている選択肢を検討していきましょう。
「自分の作品に不足している点がないかを気にしているおじさん」という部分が不適です。
おじさんは本文で「悪くないでしょ」と言っていることから、
自分の作品に自信があり、
それを肯定してほしいと考えられます。
「よい作品ではないという意見を相手を傷つけてでも伝えたいと思った」という部分が不適です。
本文ではわたしの気持ちは「母に似たものだった」とあります。
母がおじさんを傷つけてでも何かを伝えたがっていたと読み取れる記述はありません。
「自分の作品に自信がない様子であるおじさん」という部分が不適です。
おじさんは本文で「悪くないでしょ」と言っていることから、
自分の作品に自信があったと考えられます。
適当な選択肢です。
「作品の完成度が高くないにもかかわらずよい評価を求めるおじさん」という部分は、
本文の「その鶴にはなにか足りないと、わかった」という部分と、
おじさんが「悪くないでしょ」と言っているところから分かります。
「現実を突きつけたい気持ちが生じ、感じたことを率直に伝えようと思った」という部分は、
「いいと思わないものを、いいとはいえない。いってはいけない。」という部分から読み取ることができます。
選択肢の内容の根拠となる文章を本文中から探すことが重要です。
参考になった数0
この解説の修正を提案する (新しいタブで開く)
03
本問は消去法で考えるのが効率的です。
以下のポイントに注意しながら正解を絞り込んでいきましょう。
①おじさんは自分の作品をどう評価しているか?
→「悪くないでしょ」という言葉から、少なくとも自信が無い、分からないと感じているという解釈は除外されます。
②「わたし」の感情について
→「いいと思わないものを、いいとはいえない。いってはいけない」この文章から、反省を迫りたい、傷つけてでも意見を伝えたい、という意図までは読み取れません。
上記の2点を総合的に考慮すると、「作品の完成度が高くないにもかかわらずよい評価を求めるおじさんに現実を突きつけたい気持ちが生じ、感じたことを率直に伝えようと思った」と説明している選択肢が正解と判断できます。
参考になった数0
この解説の修正を提案する (新しいタブで開く)
前の問題(問11)へ
令和7年度(2025年度)本試験 問題一覧
次の問題(問13)へ