共通テスト(国語) 過去問
令和8年度(2026年度)追・再試験
問11 (第1問(評論) 問11)
問題文
ミツバチたちは、唸(うな)りをあげる。スペインのキョ(ア)ショウV・エリセの映画『ミツバチのささやき』(注1)(1973年)が、かつて教えてくれたように、あれは実は何かのささやきだったのだ。実際、あの映画の主人公は、ミツバチのささやきに誘われるように、生と死の境界線を彷徨(ほうこう)する少女だったが、彼女は最後に森で、人造人間の幻に出会っていた。スペイン内戦(注2)の終結直後を描いたあの映画では、ミツバチたちの社会(勤労・調和・秩序)への共感と別の人間(ファシスト(注3)、脱走兵、フランケンシュタイン(注4))への絶望が交錯していた。ミツバチと人造人間の出会いは、いまや、リアルに可能なものとなっている。いまでは誰もが知ることだが、ミツバチは巣箱に蜜を持ち帰るだけでなく、花畑の在処(ありか)を知らせる貴重な情報とデータを、ダンスなどで仲間たちに伝える記号的能力を持つ。恐らくはこうして群れにもたらされ共有される情報とデータこそが、ミツバチの本当の「労働」の成果であり、A真の存在価値だろう。群れは、個別の働き蜂たちが集めてくる位置情報などのデータのおかげで、効率的に蜜を巣にため込むことが出来るからだ。これは情報化された分業の形式と呼ぶべきであろう。もしも19世紀に、動物の記号論的行動がもっと知られていたなら、経済学の姿はずいぶんとかわっていたかもしれない。それはともかく、一生懸命に生きていくただそれだけで、群れ社会全体に有益な情報とデータをもたらすミツバチなり、アリたちの生存は、明らかに、最先端のテクノロジーによって生活を営むわれわれの姿とぴったりと重なるといえよう。花の蜜が労働の直接の生産物だとすれば、花畑の在処という社会的集団的に共有され活用されうる間接的な(あるいはこちらこそ直接的な)情報こそ、われわれが現在、あらゆる瞬間に、生きているだけで提供し、「生産」し続けているものだ。われわれは、それほどまでに、生(せい)のテクノロジーの内部に捕捉され、生権力(せいけんりょく)(注5)下における新しい価値システムに内在している。では、人造人間フランケンシュタインの方は、どうだろうか。
新しいフランケンシュタインを、「データ・リヴァイアサン」と呼ぼう。そもそもリヴァイアサン(注6)は、無数の人間たちを合成して作り上げられた、「死すべき神」であり、トマス・ホッブズが、近代の開始にあたって、国家のメタファーとして作り上げた人造人間である。この隠喩は、重大で、かつ奥深い。それは現代のビッグデータの時代にも、見事に当てはまると考えられる。米欧日そしてこの種の話題に欠かせない中国を加えてのビッグデータを巡る熾烈(しれつ)な争奪戦は、地上の怪物的巨大国家群(リヴァイアサンの群れ)による戦いを、何より思わせる。電子マネー決済から生体認証をはじめとして、登録された個体情報を(イ)クシし、街角の監視カメラによる追跡と解析を通じ、無線接続からのスマートフォンのスキャンなどによって、われわれは一人残らず丸裸にされている。あらゆる技術が動員される現在では、われわれが指やカードで何かに触れたり、歩いて移動したり、いや、たとえ家にいてほとんど動かなくても、すべての情報は、何らかのセンサーによって送信され、解析され、蓄積され続けている。ただ生きているというそれだけで、われわれは膨大なデータを「生産」し続けていると考えなければならない。日々の報道を見るだけで、いまやわれわれの「個人」データが、本人の知らぬ間に蓄積され、解析され放題になっているという状況は、想像を超えて深化していることがわかる。この状況それ自体が、生産や消費の概念を根源的に変える可能性を持つ。これは、極めて重大な時代の特性である。ミツバチたちのささやきが、われわれの姿を、まるで鏡に映すように示してくれるのだ。
ミツバチの寓話(ぐうわ)をもう一度まとめておこう。個別のミツバチがせっせと持ち帰る蜜の量はたかがしれているが、発見された花畑に群れをなしてエン(ウ)セイできることで、遥かに収穫量を引き上げることができる。ミツバチといいわれわれ人間といい、それぞれの個体や個人は、その属する群れや社会体(しゃかいたい)(注7)に直接に接続された、データ収集装置であり、群れ(社会)全体にとって獲物発見のための触覚ないしセンサーにほかならない。人間についてさらにいうなら、われわれ一人一人の労働は、なるほど価値を創造する行為だが、しかし、その作り出すものは、全体から見ればたかがしれている。もちろん、この小さな価値から出発して信用が生まれ、資金が投入され、大きな利益が生じるのだから、その礎石であり、基底であることは間違いない。しかしそれでも、情報技術の巨大な進展によって、価値創造の中心は移動しつつある。個人が働いている時も病気の時も、生きている限りは社会の触覚として情報を提供していく方が、同じ人が会社や工場などで(エ)キョウギの生産に携わっている時よりも、大きな価値を生み出しているのかもしれない。いや逆に、そうだからこそ、われわれは社会のアンテナやレーダーのようなものとして、社会にわれわれのデータを提供し続ける、そのように仕向けられ、そのように装置の内部に組み込まれているのである。B最先端のテクノロジーを身に着けたわれわれ現代人は、ミツバチやアリと本質的に同じものと化しつつある。
これがわれわれの生きている時代の実相だとしたら、いったいどうしてこんなことになってしまったのかと、問いたくなるだろう。誰も蜂やアリに似たいと思って人生を過ごしているのではない。しかし、社会にとっての個人の役割は、まさにミツバチのそれと五十歩百歩になりつつあるのだ。これが時代の第一の特徴であり、労働はそのまま続いているが、それと同時に、人々は別の労働(データ収集のセンサー部品となること)に従事しているのだ。これが、「データ・リヴァイアサン」の第一の意味、認識論的機械としてのその意味である。
そもそもホッブズの「リヴァイアサン」からして、存在論的なメタファーであることを踏まえれば、当然ながら、新しいマシンとしての「データ・リヴァイアサン」という表象も可能だろうと思われる。それは、存在論という以上、それがそのものであること、自分が自分自身であることの、根源的な問題に関わるのである。
もちろん、自分自身であることは基底的なことで、たいていその部分は自明な自動過程で「処理」される。その支えのお陰で、われわれは「ノーマル」に生きていけるのだ。そしてこの「ノーマル」感には、自分であることの自明で自動的な過程が、だいたい「私の身体」の内側に、この皮膚の内側に内蔵されているという、暗黙の了解がある。しかし、この了解は漠然としたもので、実はあやふやである。近代というわれわれの時代の開始時期に、ルネ・デカルト、ホッブズ、バルーフ・スピノザという偉大な思想家たちは、このあやふやさにしっかりとした構造を与えたのであるが、それはまた同時に、われわれの深部に癒(いや)しがたい傷跡を残した。この傷から、われわれの生きてきた時代と、これから生きる「世界」の基本的な見取り図を取り出してみたい。われわれをわれわれたらしめているこの傷こそ、ここで「存在論的機械」と呼ぶものである。まずはCそれがどのようなものなのか、分身のメタファーを用いて提示してみよう。
稠密(ちゅうみつ)(注8)な連続体には、機械の入り込む余地がない。だから、液状(リキッド)化した場所などに機械は存立しない。機械は、液体内にではなく地層内に生じる。周知のように、われわれの生きている時代においては、精神は断片化し、そこに機械が象嵌(ぞうがん)(注9)されている。われわれと機械は、見分けのつかない分身となりつつある。だがもちろん、分身は不吉なもの、「不気味な(uncanny)」ものと相場が決まっている。1970年代といえば、大阪万博などことあるごとに、ロボット工学が注目され、未来の技術として華々しく登場した時代であることは常識であろう。だが、その当初からの指導者だった森政弘は、「不気味の谷」現象を夙(つと)に指摘していた。この現象は、ロボット工学の範囲に留(とど)まらず、SF文学などにも広く知られることになったから、どこかで耳にされた人も多いだろう。要点は、あまりにも人間に似た動きをする文楽の人形が薄気味悪いのと同様に、あまりにも人間にそっくりなロボットは、不気味な「他者」と見えるということだ。人間への類似(外観や身振り・挙動)のみならず、言語や思考でも人間と同等もしくはそれ以上のパーフォーマンスをするという具合に、人間を凌駕(りょうが)しかねないほどの高性能のロボットを製作してしまうと、ある閾値(いきち)(注10)を超えた瞬間から、そのロボットを見る人間は、ゾンビと遭遇したような不気味さと不安に襲われるのだという。これが「谷」と命名されたのは、この不安感を曲線で表現すると、まるで谷に転げ落ちるような曲線を描くからなのだ。このように人間そっくりのロボットにつきまとう違和感は、最先端のロボット工学では(アート、映画関係を含む周辺分野を含めて)、以前から共通の問題として意識されていたのである。分身のもたらす不安と不気味さということだろう。もちろん、分身と不気味さについては、ジークムント・フロイトの古典的な論考が、ここでは常に参照されるべきだろう。余りにも自分に似た他人の姿を見ると、人は必ず不安になるからだ。だからこそ、分身と自分の死を結びつけるのは、昔から文学や映画の得意とする物語だというのは、周知のことだろう。芥川龍之介然(しか)り、ジェラール・ド・ネルヴァル然り、そしてE. A. ポーの短編「ウィリアム・ウィルソン」(注11)然り。とりわけポーの名高い物語では、分身に出会った主人公は、執拗につきまとう分身に怒りを爆発させ、ついにローマで分身を刺殺してしまう。不安の原因を受動的に我慢するのではなく、能動的にそれを支配しようと逆転を試みたのだ。しかし、それはすなわち自分自身に死をもたらす。支配するものを支配しようと試みて、自分自身に暴力を振るい、(オ)ハメツを招く。分身は、オリジナルの本人の運命と本源的に縫い合わされているが故に、つまりオリジナルと区別できないからこそ、逆説的にも分身なのである。
(佐藤淳二(さとうじゅんじ)「データ・リヴァイアサンの降臨」による)
(注1)『ミツバチのささやき』 ——— スペインの映画監督ビクトル・エリセ(1940−)の作品。
(注2)スペイン内戦 ———————— 1936年から1939年にスペインで発生した内戦のこと。フランシスコ・フランコ(1892−1975)による独裁政権が樹立された。
(注3)ファシスト ————————— ここでは、他の考えを認めない独裁的な権力体制を信奉する人々のこと。
(注4)フランケンシュタイン ———— ここでは、映画『フランケンシュタイン』(1931)に登場する、死体をつなぎ合わせて作られた人造人間のこと。
(注5)生権力 ——————————— 個人の身体や生命を管理する権力のこと。フランスの哲学者ミシェル・フーコー(1926−1984)の用語。
(注6)リヴァイアサン ——————— 水中にすむ巨大な怪獣のこと。トマス・ホッブズ(1588−1679)は自著『リヴァイアサン』(1651)で、国家をリヴァイアサンにたとえている。
(注7)社会体 ——————————— 社会を構成する組織のこと。
(注8)稠密 ———————————— 隙間なく集まっていること。
(注9)象嵌 ———————————— ひとつの素材に異質の素材をはめ込む工芸技法のこと。
(注10)閾値 ———————————— 限界値のこと。
(注11)「ウィリアム・ウィルソン」 — 1839年刊行。アメリカの文学者エドガー・アラン・ポー(1809−1849)の作品。
本文および【資料】を読んで、全体の趣旨として最も適当なものを、次の選択肢のうちから一つ選べ。
【資料】
データベースは、むしろデータを集めたいという科学の生産欲望の表れだが、逆説的なことに、それは記録するだけで、「記憶」を持たないのだ。しかし、現在の人工知能は、単なる蓄積だけではなく、データ相互を自ら関係させ、深層で学習する。もう誰もが知っているように、囲碁・将棋という最高度の知性と直観を要求されるゲームで、もはや人間はまったくAIに勝つことができなくなったのも、この学習機能の進化による。一言でいえば、人工知能がもはや昔日の「道具」ではないこと、われわれを凌駕しえる一個の「他者」であり、「主体」であること、「分身」であることを、認める必要がある。データ・リヴァイアサンはビッグデータによるデータベースではなく、データがデータを超越しつつ新しい展望を生成する、一つの主体であり分身だ。さらにいえば、それが道具でない以上、データ・リヴァイアサンは、環境に単に属しているのではなく、まさにわれわれと同じ「世界」を形成しうる存在なのである。
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問題
共通テスト(国語)試験 令和8年度(2026年度)追・再試験 問11(第1問(評論) 問11) (訂正依頼・報告はこちら)
ミツバチたちは、唸(うな)りをあげる。スペインのキョ(ア)ショウV・エリセの映画『ミツバチのささやき』(注1)(1973年)が、かつて教えてくれたように、あれは実は何かのささやきだったのだ。実際、あの映画の主人公は、ミツバチのささやきに誘われるように、生と死の境界線を彷徨(ほうこう)する少女だったが、彼女は最後に森で、人造人間の幻に出会っていた。スペイン内戦(注2)の終結直後を描いたあの映画では、ミツバチたちの社会(勤労・調和・秩序)への共感と別の人間(ファシスト(注3)、脱走兵、フランケンシュタイン(注4))への絶望が交錯していた。ミツバチと人造人間の出会いは、いまや、リアルに可能なものとなっている。いまでは誰もが知ることだが、ミツバチは巣箱に蜜を持ち帰るだけでなく、花畑の在処(ありか)を知らせる貴重な情報とデータを、ダンスなどで仲間たちに伝える記号的能力を持つ。恐らくはこうして群れにもたらされ共有される情報とデータこそが、ミツバチの本当の「労働」の成果であり、A真の存在価値だろう。群れは、個別の働き蜂たちが集めてくる位置情報などのデータのおかげで、効率的に蜜を巣にため込むことが出来るからだ。これは情報化された分業の形式と呼ぶべきであろう。もしも19世紀に、動物の記号論的行動がもっと知られていたなら、経済学の姿はずいぶんとかわっていたかもしれない。それはともかく、一生懸命に生きていくただそれだけで、群れ社会全体に有益な情報とデータをもたらすミツバチなり、アリたちの生存は、明らかに、最先端のテクノロジーによって生活を営むわれわれの姿とぴったりと重なるといえよう。花の蜜が労働の直接の生産物だとすれば、花畑の在処という社会的集団的に共有され活用されうる間接的な(あるいはこちらこそ直接的な)情報こそ、われわれが現在、あらゆる瞬間に、生きているだけで提供し、「生産」し続けているものだ。われわれは、それほどまでに、生(せい)のテクノロジーの内部に捕捉され、生権力(せいけんりょく)(注5)下における新しい価値システムに内在している。では、人造人間フランケンシュタインの方は、どうだろうか。
新しいフランケンシュタインを、「データ・リヴァイアサン」と呼ぼう。そもそもリヴァイアサン(注6)は、無数の人間たちを合成して作り上げられた、「死すべき神」であり、トマス・ホッブズが、近代の開始にあたって、国家のメタファーとして作り上げた人造人間である。この隠喩は、重大で、かつ奥深い。それは現代のビッグデータの時代にも、見事に当てはまると考えられる。米欧日そしてこの種の話題に欠かせない中国を加えてのビッグデータを巡る熾烈(しれつ)な争奪戦は、地上の怪物的巨大国家群(リヴァイアサンの群れ)による戦いを、何より思わせる。電子マネー決済から生体認証をはじめとして、登録された個体情報を(イ)クシし、街角の監視カメラによる追跡と解析を通じ、無線接続からのスマートフォンのスキャンなどによって、われわれは一人残らず丸裸にされている。あらゆる技術が動員される現在では、われわれが指やカードで何かに触れたり、歩いて移動したり、いや、たとえ家にいてほとんど動かなくても、すべての情報は、何らかのセンサーによって送信され、解析され、蓄積され続けている。ただ生きているというそれだけで、われわれは膨大なデータを「生産」し続けていると考えなければならない。日々の報道を見るだけで、いまやわれわれの「個人」データが、本人の知らぬ間に蓄積され、解析され放題になっているという状況は、想像を超えて深化していることがわかる。この状況それ自体が、生産や消費の概念を根源的に変える可能性を持つ。これは、極めて重大な時代の特性である。ミツバチたちのささやきが、われわれの姿を、まるで鏡に映すように示してくれるのだ。
ミツバチの寓話(ぐうわ)をもう一度まとめておこう。個別のミツバチがせっせと持ち帰る蜜の量はたかがしれているが、発見された花畑に群れをなしてエン(ウ)セイできることで、遥かに収穫量を引き上げることができる。ミツバチといいわれわれ人間といい、それぞれの個体や個人は、その属する群れや社会体(しゃかいたい)(注7)に直接に接続された、データ収集装置であり、群れ(社会)全体にとって獲物発見のための触覚ないしセンサーにほかならない。人間についてさらにいうなら、われわれ一人一人の労働は、なるほど価値を創造する行為だが、しかし、その作り出すものは、全体から見ればたかがしれている。もちろん、この小さな価値から出発して信用が生まれ、資金が投入され、大きな利益が生じるのだから、その礎石であり、基底であることは間違いない。しかしそれでも、情報技術の巨大な進展によって、価値創造の中心は移動しつつある。個人が働いている時も病気の時も、生きている限りは社会の触覚として情報を提供していく方が、同じ人が会社や工場などで(エ)キョウギの生産に携わっている時よりも、大きな価値を生み出しているのかもしれない。いや逆に、そうだからこそ、われわれは社会のアンテナやレーダーのようなものとして、社会にわれわれのデータを提供し続ける、そのように仕向けられ、そのように装置の内部に組み込まれているのである。B最先端のテクノロジーを身に着けたわれわれ現代人は、ミツバチやアリと本質的に同じものと化しつつある。
これがわれわれの生きている時代の実相だとしたら、いったいどうしてこんなことになってしまったのかと、問いたくなるだろう。誰も蜂やアリに似たいと思って人生を過ごしているのではない。しかし、社会にとっての個人の役割は、まさにミツバチのそれと五十歩百歩になりつつあるのだ。これが時代の第一の特徴であり、労働はそのまま続いているが、それと同時に、人々は別の労働(データ収集のセンサー部品となること)に従事しているのだ。これが、「データ・リヴァイアサン」の第一の意味、認識論的機械としてのその意味である。
そもそもホッブズの「リヴァイアサン」からして、存在論的なメタファーであることを踏まえれば、当然ながら、新しいマシンとしての「データ・リヴァイアサン」という表象も可能だろうと思われる。それは、存在論という以上、それがそのものであること、自分が自分自身であることの、根源的な問題に関わるのである。
もちろん、自分自身であることは基底的なことで、たいていその部分は自明な自動過程で「処理」される。その支えのお陰で、われわれは「ノーマル」に生きていけるのだ。そしてこの「ノーマル」感には、自分であることの自明で自動的な過程が、だいたい「私の身体」の内側に、この皮膚の内側に内蔵されているという、暗黙の了解がある。しかし、この了解は漠然としたもので、実はあやふやである。近代というわれわれの時代の開始時期に、ルネ・デカルト、ホッブズ、バルーフ・スピノザという偉大な思想家たちは、このあやふやさにしっかりとした構造を与えたのであるが、それはまた同時に、われわれの深部に癒(いや)しがたい傷跡を残した。この傷から、われわれの生きてきた時代と、これから生きる「世界」の基本的な見取り図を取り出してみたい。われわれをわれわれたらしめているこの傷こそ、ここで「存在論的機械」と呼ぶものである。まずはCそれがどのようなものなのか、分身のメタファーを用いて提示してみよう。
稠密(ちゅうみつ)(注8)な連続体には、機械の入り込む余地がない。だから、液状(リキッド)化した場所などに機械は存立しない。機械は、液体内にではなく地層内に生じる。周知のように、われわれの生きている時代においては、精神は断片化し、そこに機械が象嵌(ぞうがん)(注9)されている。われわれと機械は、見分けのつかない分身となりつつある。だがもちろん、分身は不吉なもの、「不気味な(uncanny)」ものと相場が決まっている。1970年代といえば、大阪万博などことあるごとに、ロボット工学が注目され、未来の技術として華々しく登場した時代であることは常識であろう。だが、その当初からの指導者だった森政弘は、「不気味の谷」現象を夙(つと)に指摘していた。この現象は、ロボット工学の範囲に留(とど)まらず、SF文学などにも広く知られることになったから、どこかで耳にされた人も多いだろう。要点は、あまりにも人間に似た動きをする文楽の人形が薄気味悪いのと同様に、あまりにも人間にそっくりなロボットは、不気味な「他者」と見えるということだ。人間への類似(外観や身振り・挙動)のみならず、言語や思考でも人間と同等もしくはそれ以上のパーフォーマンスをするという具合に、人間を凌駕(りょうが)しかねないほどの高性能のロボットを製作してしまうと、ある閾値(いきち)(注10)を超えた瞬間から、そのロボットを見る人間は、ゾンビと遭遇したような不気味さと不安に襲われるのだという。これが「谷」と命名されたのは、この不安感を曲線で表現すると、まるで谷に転げ落ちるような曲線を描くからなのだ。このように人間そっくりのロボットにつきまとう違和感は、最先端のロボット工学では(アート、映画関係を含む周辺分野を含めて)、以前から共通の問題として意識されていたのである。分身のもたらす不安と不気味さということだろう。もちろん、分身と不気味さについては、ジークムント・フロイトの古典的な論考が、ここでは常に参照されるべきだろう。余りにも自分に似た他人の姿を見ると、人は必ず不安になるからだ。だからこそ、分身と自分の死を結びつけるのは、昔から文学や映画の得意とする物語だというのは、周知のことだろう。芥川龍之介然(しか)り、ジェラール・ド・ネルヴァル然り、そしてE. A. ポーの短編「ウィリアム・ウィルソン」(注11)然り。とりわけポーの名高い物語では、分身に出会った主人公は、執拗につきまとう分身に怒りを爆発させ、ついにローマで分身を刺殺してしまう。不安の原因を受動的に我慢するのではなく、能動的にそれを支配しようと逆転を試みたのだ。しかし、それはすなわち自分自身に死をもたらす。支配するものを支配しようと試みて、自分自身に暴力を振るい、(オ)ハメツを招く。分身は、オリジナルの本人の運命と本源的に縫い合わされているが故に、つまりオリジナルと区別できないからこそ、逆説的にも分身なのである。
(佐藤淳二(さとうじゅんじ)「データ・リヴァイアサンの降臨」による)
(注1)『ミツバチのささやき』 ——— スペインの映画監督ビクトル・エリセ(1940−)の作品。
(注2)スペイン内戦 ———————— 1936年から1939年にスペインで発生した内戦のこと。フランシスコ・フランコ(1892−1975)による独裁政権が樹立された。
(注3)ファシスト ————————— ここでは、他の考えを認めない独裁的な権力体制を信奉する人々のこと。
(注4)フランケンシュタイン ———— ここでは、映画『フランケンシュタイン』(1931)に登場する、死体をつなぎ合わせて作られた人造人間のこと。
(注5)生権力 ——————————— 個人の身体や生命を管理する権力のこと。フランスの哲学者ミシェル・フーコー(1926−1984)の用語。
(注6)リヴァイアサン ——————— 水中にすむ巨大な怪獣のこと。トマス・ホッブズ(1588−1679)は自著『リヴァイアサン』(1651)で、国家をリヴァイアサンにたとえている。
(注7)社会体 ——————————— 社会を構成する組織のこと。
(注8)稠密 ———————————— 隙間なく集まっていること。
(注9)象嵌 ———————————— ひとつの素材に異質の素材をはめ込む工芸技法のこと。
(注10)閾値 ———————————— 限界値のこと。
(注11)「ウィリアム・ウィルソン」 — 1839年刊行。アメリカの文学者エドガー・アラン・ポー(1809−1849)の作品。
本文および【資料】を読んで、全体の趣旨として最も適当なものを、次の選択肢のうちから一つ選べ。
【資料】
データベースは、むしろデータを集めたいという科学の生産欲望の表れだが、逆説的なことに、それは記録するだけで、「記憶」を持たないのだ。しかし、現在の人工知能は、単なる蓄積だけではなく、データ相互を自ら関係させ、深層で学習する。もう誰もが知っているように、囲碁・将棋という最高度の知性と直観を要求されるゲームで、もはや人間はまったくAIに勝つことができなくなったのも、この学習機能の進化による。一言でいえば、人工知能がもはや昔日の「道具」ではないこと、われわれを凌駕しえる一個の「他者」であり、「主体」であること、「分身」であることを、認める必要がある。データ・リヴァイアサンはビッグデータによるデータベースではなく、データがデータを超越しつつ新しい展望を生成する、一つの主体であり分身だ。さらにいえば、それが道具でない以上、データ・リヴァイアサンは、環境に単に属しているのではなく、まさにわれわれと同じ「世界」を形成しうる存在なのである。
- 筆者は現代における急激なテクノロジーの進展がかえってわれわれを疎外している弊害を指摘するとともに、人間が人間として生きながら機械を活用していくという現代テクノロジーとの共存のヒントを提出しようとしている。
- 筆者は情報技術の驚異的な発達によってわれわれの行動がすべて監視されてしまっている現状を指摘するとともに、こうした世界のなかでどう振る舞えば情報の網の目から逃れうるのかという方法を提起しようとしている。
- 筆者はわれわれの日々の営為から情報を収集している現在の科学技術の一面を指摘するとともに、もはや単純な道具ではなくなっている機械に対して人間がこれまで有していた認識を改めていく必要性を提示しようとしている。
- 筆者は現在進行しているビッグデータをめぐる人間存在の断片化とそのデータの社会における重要性を指摘するとともに、われわれの未来においてこのデータをどのように利用していくかということを提案しようとしている。
正解!素晴らしいです
残念...
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