共通テスト(国語) 過去問
令和8年度(2026年度)追・再試験
問19 (第2問(小説) 問8)
問題文
その郵便は弟の英二から来たのであった。一年に三度ぐらいしか手紙を書いた事のない英二は、それで、綴方(つづりかた)(注1)とお習字の仕上げを根限(こんかぎ)り(注2)遣(や)っていた。
お絹は先(ま)ず、封筒の馬鹿丁寧な字を見て、微笑した。その手紙には何時(いつ)も、お世辞がちっともないのであった。電報をもう少し、長くしたようなものであった。一(ひと)くさりの単語から色々な意味を汲(く)みとらなければならなかった。一字一句を様々に延長して考えなければならなかった。Aこの仕事はお絹に、人知れぬ喜びを齎(もたら)してくれた。が、今朝の手紙には、「裏の藪(やぶ)に筍(たけのこ)がたくさん生えた。」とも「お父さんは大変丈夫だ、」とも書いてはなかった。ほんの一行読んだきりで、お絹は顔の色を変えた。その手紙には、田舎者らしい信頼と、無骨な卒直さで、
「私は明日の夜行で立つから、停車場まで迎えに来てくれ。」
と書いてあった。———誰がお前に来いなどと———それはお絹が書いて遣ったのであった。
お絹はたった二週間前の事(注3)を忘れていた。寝ている間中、彼女は自分の事だけしか考えていなかった。もしくは、自分の道に立塞(たちふさ)がろうとする厚かましい人間に対して、反抗する事ばかりしか考えていなかった。然(しか)し、英二はもう、汽車に乗って、林檎(りんご)の白い花を窓に見ながら東京に向(むか)っているであろう。
お絹はミシン屋の甘言にうまうまと引掛(ひっかか)って、安っぽい感激で有頂天になっていた自分を呪った。そんな夢はとうの昔に、消えてなくなっていた。
「又この上に、丸裸のままで食いたがってばかりいる人間が、一人増えるのか!」
お絹は溜息(ためいき)を吐(つ)いた。
が、汽車は脱線もしないで進行していた。
お絹は顔を洗いに下りた序(ついで)に、おえいに話し掛けた。
「国から弟が来るって言って来たんだけども、全く困ってしまうのよ。」
「今は駄目だと言って遣れば好(い)いじゃあないか。」
たった一人の相談相手は、そんな事は考えるまでもない、という顔付(かおつき)で、(ア)にべもなく言って退(の)けた。Bお絹は情けない顔をして、夕方は上野へ着くはずだ、と言った。
「無鉄砲な事を遣るもんだねえ。」
おえいはこう、仰山(ぎょうさん)な言方(いいかた)をして、馬鹿正直な田舎者と、虫の好い姉娘とを一緒に非難した。
「一体、如何(どう)するってんだろう?」
と、おえいは、相手に聴(きこ)えないような低い声で呟(つぶや)いた。そして、早速、ナップル(注4)の時計会社へでも、世話をして遣らなければなるまい、と、ひそかな親切心で思い廻(めぐ)らしていた。
午後、汽車が着く二時間も前に、お絹は駅へ出掛けようとした。屋根裏の二階で、色々な事を考えているのが、息苦しくて仕方がなかったから、駅で、うようよする人混みを見ていたら気が紛れるだろう、と思ったのであった。
「一体、幾時の汽車なんだね?」
おえいが、へっつい(注5)の上の壁に貼り付けた煤(すす)けた時間表を見ながら、声を掛けたが、お絹は聴えぬ振りをしていた。赤坊(あかんぼう)が一緒に出たがって泣いていた。「なんて、うるさい児(こ)だろう。」お絹は頭の中がごちゃごちゃになっていたので、べそっ搔(か)きに構っていられなかった。足の痛みは体だけが感じていて、頭の中までは上って来なかった。少し引摺(ひきず)り加減に歩いていながら、お絹はそれを知らなかった。馬鹿のようになって、眼(め)ばかり見張って真直(まっす)ぐに歩いていた。乗合自動車、電車、自転車が蚊の鳴くような微(かす)かな唸(うな)りを立てて、かすめていた。それらはまるで、別の世界で唸っていた。頭の中では「如何したら宜(よ)かろう?」という何時までも答えの出ない循環小数が、どうどう廻りを遣っていた。
停車場では、様々なC自働人形がうようよしていた。赤切符(注6)で二等待合室に収(おさま)っているハイカラ令嬢や、俺のネクタイは如何だい?と体中で皆(みんな)に聴いている若い男や、芸者を連れて旅行する事を人々に知らせたがっている禿茶瓶(はげちゃびん)(注7)や、その他、他人の思わくばかりで動いている人間の集(あつま)りであった。が、お絹はちっとも腹が立たなかった。それらは皆(みな)、別の世界に住んでいた。なんにもお絹の気を惹(ひ)くものは無かった。汽車が来た!光ったレールの上に、機関車の頭部が現(あらわ)われた瞬間に、お絹の臍(へそ)の上から胸の方へ、固い棒のようなものがぐっとこみ上げて来た。肉身(注8)に対する本能的な愛情が、泉のように湧いた。つい一瞬間前まで、「如何して厄介払いをしたものだろう。」という事ばかり考えていた事が恥(はずか)しかった。そんな冷酷な考えを持ったのが自分だという事は、情けない事であった。英二!英二!お絹の眼の前に、茶縞(ちゃじま)の筒袖(注9)を着て、新しい、玩具(おもちゃ)のようにしゃちこ張った(注10)帽子を冠(かぶ)って、畝道(あぜみち)を学校へ行く、英二の子供姿の幻がかすめて通った。次の瞬間には、その幻が「中学生(注11)」に出世していた。それは紺サージ(注12)のちっとも継(つぎ)の当(あた)らない洋服を着て、光った編上(あみあ)げを穿(うが)って(注13)いた。そして「今日のおやつは何かしら?」という事以外には苦労のない、ほがらかな顔をしていなければならなかった。それが英二に対するお絹の偶像であった。その偶像とお絹とは、ちょっと小綺麗(こぎれい)な二階を借りて、楽しい巣を営むはずであった。———これらの想像は、ほんの一瞬間にお絹の頭の中を過ぎたのであった。然し、汽車の頭が駅に這入(はい)るすぐ手前のカーブに差掛(さしかか)ってから、蒸気が切れた、とでもいう風にしていた。お絹はこんなのろまな汽車を見た事がなかった。が、到頭(とうとう)、けたたましい最後の叫声(さけびごえ)を挙げて止まった。お絹は焼けつくような瞳(め)で英二を探した。見知らない無数の首が、窓から出ていた。彼女にはなんの係(かかわ)りもない様な叫声が、喧(やかま)しく呼びかわしていた。せわしない喜悲劇(きひげき)が騒然と幕を上げていた。やがて人々は、豆を煎るような音を立てて階段を上って行った。
英二はいないのか!いた。それはなんという情けない様子であったろうか。お絹はもう少しで声を挙げるところであった。二人が別れて九年経っている事を忘れていた。D英二はもう玩具(がんぐ)ではない。村祭りには褌(ふんどし)をかいて(注14)山車を担ぐ立派な若い衆であった。
「荷物は?」
「自分で持って来た。」
英二はちょっと笑おうとした。厚い唇から馬鹿げて白い歯が出ていた。茶色の瞳が疑深(うたがいぶか)く光っていた。それは、人に怖(おび)えた山猿の表情であった。お絹は、何か親しい言葉を掛けて遣りたいと思いながら、何にも言う事が出来なかった。「さぞ疲れたでしょう?」と言う代(かわ)りに、お絹は沈黙(だま)って信玄袋(しんげんぶくろ)(注15)の緒に手を掛けた。英二はそれを振払(ふりはら)って、自分で提げて歩き出した。
彼は横肥(よこぶと)りの上に脊(せ)が低かった。おまけに大人びた袂付(たもとつき)の着物を着ていた。袋の重味で肩がシーソーのように揺れた。まるで、奴凧(やっこだこ)(注16)が踊っているようであった。おどけた腰には、水色縮緬(ちりめん)の二尺幅の帯(注17)がみせつけがましく捲(ま)きつけてあって、垂れが尻の横っちょでぶらんぶらんしていた。
ちょうど、郵便車から行囊(こうのう)を引摺り出していた駅夫(注18)と、押車(おしぐるま)に腰を下(おろ)していた赤帽(注19)とが、変なめくばせをした。そして、ちょっと間を置いて、悪意のある大笑いを浴(あび)せ掛けた。英二は、朴訥(ぼくとつ)な恥しがりから、(イ)すばしこく感じていたが、振り返るのが恐ろしかった。が、あとから、お絹が続いていた。お絹は、他人を嘲笑して楽しんでいる彼等(かれら)の下素(げす)根性を憎んだ。その上に、自分の弟が的になっていた。お絹は英二の側(そば)に寄って、かばうような身構えをし、敵意のある眼で白眼(にら)み返した。その時には、向(むこ)うの仲間は四、五人になっていた。貧乏娘の下手な挑戦は、ぼろを着た「かがし」(注20)が弓を引いているようであった。彼等は面白がって凱歌(がいか)を挙げていた。お絹はその声を弟に聴かせたくなかった。何かまるで別の話しを、国の様子をでも話し合おうとした。が、水色縮緬の帯と奴凧の袖とが、お絹の瞳(ひとみ)から離れなかった。
「もっと違った帯は持っていないの?」
そう、聴いてみたくて堪(たま)らなかった。「男手一つに育てられた。」と笑わせたくないという、老父の愛情が、その帯を腰に捲かせた事を、お絹はちっとも知らなかったから。
E二人は、逐(お)い立てられるように、駅から出た。宿まで歩く間中、ちっとも口を利かなかった。二人とも駅での出来事を気に病んでいた。その上に英二は、田舎訛(なま)りを笑われやしないか、と心配していたし、お絹は、弟の品定めを遣っている事を、気附(きづ)かれやしないかと恐れていた。然し、それでも宜かった。二人は、お互(たがい)同士の心の底に湛(たた)えている湖のような愛情を信じていたから、それで満足していた。
(注1)綴方 ———— 作文のこと。
(注2)根限り ——— 気力の続く限り。
(注3)二週間前の事 ——— 仕事を始めて間もなく、お絹は故郷から弟を呼び寄せて上級学校に通わせようと思い手紙を出していた。
(注4)ナップル ————— 東京にあったナップル時計工場。
(注5)へっつい ——— かまどのこと。
(注6)赤切符 ——— 汽車の三等乗車券のこと。最も安い切符。
(注7)禿茶瓶 ——— つるんとした頭を茶瓶になぞらえて、あざけっていう言葉。
(注8)肉身 ——— 肉親と同じ。
(注9)筒袖 ——— 筒型の袖。ここではその袖の着物で、子供向き衣服。
(注10)しゃちこ張った ——— ここでは体になじんでいない様子。
(注11)中学生 ——— ここでは旧制中学校の生徒。義務教育ではなかったため、進学は比較的裕福な家庭の男子に限られた。
(注12)紺サージ ——— ここでは中学校の制服のこと。「サージ」は生地の一種。
(注13)編上げを穿って ——— 足の甲から足首までをひもで✕(バツ)字に編んで締める、深い編み上げ靴をはいて。
(注14)褌をかいて ——— 褌を身につけて。
(注15)信玄袋 ——— 底板があり、口をひもで締めて持ち運ぶ比較的大型の布袋。
(注16)奴凧 ——— 人が両腕を広げた形に作った凧。
(注17)水色縮緬の二尺幅の帯 ——— 縮緬素材でできた男性や子供が用いるやわらかい帯。
(注18)行囊を引摺り出していた駅夫 ——— 行囊は郵便物を入れて運び送る袋。駅夫は当時の駅員の一種。
(注19)赤帽 ——— 駅で乗降客の手荷物を運ぶ人。
(注20)かがし ——— かかしのこと。
本文の表現上の特徴についての説明として適当なものを、次の選択肢のうちから二つ選べ。
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問題
共通テスト(国語)試験 令和8年度(2026年度)追・再試験 問19(第2問(小説) 問8) (訂正依頼・報告はこちら)
その郵便は弟の英二から来たのであった。一年に三度ぐらいしか手紙を書いた事のない英二は、それで、綴方(つづりかた)(注1)とお習字の仕上げを根限(こんかぎ)り(注2)遣(や)っていた。
お絹は先(ま)ず、封筒の馬鹿丁寧な字を見て、微笑した。その手紙には何時(いつ)も、お世辞がちっともないのであった。電報をもう少し、長くしたようなものであった。一(ひと)くさりの単語から色々な意味を汲(く)みとらなければならなかった。一字一句を様々に延長して考えなければならなかった。Aこの仕事はお絹に、人知れぬ喜びを齎(もたら)してくれた。が、今朝の手紙には、「裏の藪(やぶ)に筍(たけのこ)がたくさん生えた。」とも「お父さんは大変丈夫だ、」とも書いてはなかった。ほんの一行読んだきりで、お絹は顔の色を変えた。その手紙には、田舎者らしい信頼と、無骨な卒直さで、
「私は明日の夜行で立つから、停車場まで迎えに来てくれ。」
と書いてあった。———誰がお前に来いなどと———それはお絹が書いて遣ったのであった。
お絹はたった二週間前の事(注3)を忘れていた。寝ている間中、彼女は自分の事だけしか考えていなかった。もしくは、自分の道に立塞(たちふさ)がろうとする厚かましい人間に対して、反抗する事ばかりしか考えていなかった。然(しか)し、英二はもう、汽車に乗って、林檎(りんご)の白い花を窓に見ながら東京に向(むか)っているであろう。
お絹はミシン屋の甘言にうまうまと引掛(ひっかか)って、安っぽい感激で有頂天になっていた自分を呪った。そんな夢はとうの昔に、消えてなくなっていた。
「又この上に、丸裸のままで食いたがってばかりいる人間が、一人増えるのか!」
お絹は溜息(ためいき)を吐(つ)いた。
が、汽車は脱線もしないで進行していた。
お絹は顔を洗いに下りた序(ついで)に、おえいに話し掛けた。
「国から弟が来るって言って来たんだけども、全く困ってしまうのよ。」
「今は駄目だと言って遣れば好(い)いじゃあないか。」
たった一人の相談相手は、そんな事は考えるまでもない、という顔付(かおつき)で、(ア)にべもなく言って退(の)けた。Bお絹は情けない顔をして、夕方は上野へ着くはずだ、と言った。
「無鉄砲な事を遣るもんだねえ。」
おえいはこう、仰山(ぎょうさん)な言方(いいかた)をして、馬鹿正直な田舎者と、虫の好い姉娘とを一緒に非難した。
「一体、如何(どう)するってんだろう?」
と、おえいは、相手に聴(きこ)えないような低い声で呟(つぶや)いた。そして、早速、ナップル(注4)の時計会社へでも、世話をして遣らなければなるまい、と、ひそかな親切心で思い廻(めぐ)らしていた。
午後、汽車が着く二時間も前に、お絹は駅へ出掛けようとした。屋根裏の二階で、色々な事を考えているのが、息苦しくて仕方がなかったから、駅で、うようよする人混みを見ていたら気が紛れるだろう、と思ったのであった。
「一体、幾時の汽車なんだね?」
おえいが、へっつい(注5)の上の壁に貼り付けた煤(すす)けた時間表を見ながら、声を掛けたが、お絹は聴えぬ振りをしていた。赤坊(あかんぼう)が一緒に出たがって泣いていた。「なんて、うるさい児(こ)だろう。」お絹は頭の中がごちゃごちゃになっていたので、べそっ搔(か)きに構っていられなかった。足の痛みは体だけが感じていて、頭の中までは上って来なかった。少し引摺(ひきず)り加減に歩いていながら、お絹はそれを知らなかった。馬鹿のようになって、眼(め)ばかり見張って真直(まっす)ぐに歩いていた。乗合自動車、電車、自転車が蚊の鳴くような微(かす)かな唸(うな)りを立てて、かすめていた。それらはまるで、別の世界で唸っていた。頭の中では「如何したら宜(よ)かろう?」という何時までも答えの出ない循環小数が、どうどう廻りを遣っていた。
停車場では、様々なC自働人形がうようよしていた。赤切符(注6)で二等待合室に収(おさま)っているハイカラ令嬢や、俺のネクタイは如何だい?と体中で皆(みんな)に聴いている若い男や、芸者を連れて旅行する事を人々に知らせたがっている禿茶瓶(はげちゃびん)(注7)や、その他、他人の思わくばかりで動いている人間の集(あつま)りであった。が、お絹はちっとも腹が立たなかった。それらは皆(みな)、別の世界に住んでいた。なんにもお絹の気を惹(ひ)くものは無かった。汽車が来た!光ったレールの上に、機関車の頭部が現(あらわ)われた瞬間に、お絹の臍(へそ)の上から胸の方へ、固い棒のようなものがぐっとこみ上げて来た。肉身(注8)に対する本能的な愛情が、泉のように湧いた。つい一瞬間前まで、「如何して厄介払いをしたものだろう。」という事ばかり考えていた事が恥(はずか)しかった。そんな冷酷な考えを持ったのが自分だという事は、情けない事であった。英二!英二!お絹の眼の前に、茶縞(ちゃじま)の筒袖(注9)を着て、新しい、玩具(おもちゃ)のようにしゃちこ張った(注10)帽子を冠(かぶ)って、畝道(あぜみち)を学校へ行く、英二の子供姿の幻がかすめて通った。次の瞬間には、その幻が「中学生(注11)」に出世していた。それは紺サージ(注12)のちっとも継(つぎ)の当(あた)らない洋服を着て、光った編上(あみあ)げを穿(うが)って(注13)いた。そして「今日のおやつは何かしら?」という事以外には苦労のない、ほがらかな顔をしていなければならなかった。それが英二に対するお絹の偶像であった。その偶像とお絹とは、ちょっと小綺麗(こぎれい)な二階を借りて、楽しい巣を営むはずであった。———これらの想像は、ほんの一瞬間にお絹の頭の中を過ぎたのであった。然し、汽車の頭が駅に這入(はい)るすぐ手前のカーブに差掛(さしかか)ってから、蒸気が切れた、とでもいう風にしていた。お絹はこんなのろまな汽車を見た事がなかった。が、到頭(とうとう)、けたたましい最後の叫声(さけびごえ)を挙げて止まった。お絹は焼けつくような瞳(め)で英二を探した。見知らない無数の首が、窓から出ていた。彼女にはなんの係(かかわ)りもない様な叫声が、喧(やかま)しく呼びかわしていた。せわしない喜悲劇(きひげき)が騒然と幕を上げていた。やがて人々は、豆を煎るような音を立てて階段を上って行った。
英二はいないのか!いた。それはなんという情けない様子であったろうか。お絹はもう少しで声を挙げるところであった。二人が別れて九年経っている事を忘れていた。D英二はもう玩具(がんぐ)ではない。村祭りには褌(ふんどし)をかいて(注14)山車を担ぐ立派な若い衆であった。
「荷物は?」
「自分で持って来た。」
英二はちょっと笑おうとした。厚い唇から馬鹿げて白い歯が出ていた。茶色の瞳が疑深(うたがいぶか)く光っていた。それは、人に怖(おび)えた山猿の表情であった。お絹は、何か親しい言葉を掛けて遣りたいと思いながら、何にも言う事が出来なかった。「さぞ疲れたでしょう?」と言う代(かわ)りに、お絹は沈黙(だま)って信玄袋(しんげんぶくろ)(注15)の緒に手を掛けた。英二はそれを振払(ふりはら)って、自分で提げて歩き出した。
彼は横肥(よこぶと)りの上に脊(せ)が低かった。おまけに大人びた袂付(たもとつき)の着物を着ていた。袋の重味で肩がシーソーのように揺れた。まるで、奴凧(やっこだこ)(注16)が踊っているようであった。おどけた腰には、水色縮緬(ちりめん)の二尺幅の帯(注17)がみせつけがましく捲(ま)きつけてあって、垂れが尻の横っちょでぶらんぶらんしていた。
ちょうど、郵便車から行囊(こうのう)を引摺り出していた駅夫(注18)と、押車(おしぐるま)に腰を下(おろ)していた赤帽(注19)とが、変なめくばせをした。そして、ちょっと間を置いて、悪意のある大笑いを浴(あび)せ掛けた。英二は、朴訥(ぼくとつ)な恥しがりから、(イ)すばしこく感じていたが、振り返るのが恐ろしかった。が、あとから、お絹が続いていた。お絹は、他人を嘲笑して楽しんでいる彼等(かれら)の下素(げす)根性を憎んだ。その上に、自分の弟が的になっていた。お絹は英二の側(そば)に寄って、かばうような身構えをし、敵意のある眼で白眼(にら)み返した。その時には、向(むこ)うの仲間は四、五人になっていた。貧乏娘の下手な挑戦は、ぼろを着た「かがし」(注20)が弓を引いているようであった。彼等は面白がって凱歌(がいか)を挙げていた。お絹はその声を弟に聴かせたくなかった。何かまるで別の話しを、国の様子をでも話し合おうとした。が、水色縮緬の帯と奴凧の袖とが、お絹の瞳(ひとみ)から離れなかった。
「もっと違った帯は持っていないの?」
そう、聴いてみたくて堪(たま)らなかった。「男手一つに育てられた。」と笑わせたくないという、老父の愛情が、その帯を腰に捲かせた事を、お絹はちっとも知らなかったから。
E二人は、逐(お)い立てられるように、駅から出た。宿まで歩く間中、ちっとも口を利かなかった。二人とも駅での出来事を気に病んでいた。その上に英二は、田舎訛(なま)りを笑われやしないか、と心配していたし、お絹は、弟の品定めを遣っている事を、気附(きづ)かれやしないかと恐れていた。然し、それでも宜かった。二人は、お互(たがい)同士の心の底に湛(たた)えている湖のような愛情を信じていたから、それで満足していた。
(注1)綴方 ———— 作文のこと。
(注2)根限り ——— 気力の続く限り。
(注3)二週間前の事 ——— 仕事を始めて間もなく、お絹は故郷から弟を呼び寄せて上級学校に通わせようと思い手紙を出していた。
(注4)ナップル ————— 東京にあったナップル時計工場。
(注5)へっつい ——— かまどのこと。
(注6)赤切符 ——— 汽車の三等乗車券のこと。最も安い切符。
(注7)禿茶瓶 ——— つるんとした頭を茶瓶になぞらえて、あざけっていう言葉。
(注8)肉身 ——— 肉親と同じ。
(注9)筒袖 ——— 筒型の袖。ここではその袖の着物で、子供向き衣服。
(注10)しゃちこ張った ——— ここでは体になじんでいない様子。
(注11)中学生 ——— ここでは旧制中学校の生徒。義務教育ではなかったため、進学は比較的裕福な家庭の男子に限られた。
(注12)紺サージ ——— ここでは中学校の制服のこと。「サージ」は生地の一種。
(注13)編上げを穿って ——— 足の甲から足首までをひもで✕(バツ)字に編んで締める、深い編み上げ靴をはいて。
(注14)褌をかいて ——— 褌を身につけて。
(注15)信玄袋 ——— 底板があり、口をひもで締めて持ち運ぶ比較的大型の布袋。
(注16)奴凧 ——— 人が両腕を広げた形に作った凧。
(注17)水色縮緬の二尺幅の帯 ——— 縮緬素材でできた男性や子供が用いるやわらかい帯。
(注18)行囊を引摺り出していた駅夫 ——— 行囊は郵便物を入れて運び送る袋。駅夫は当時の駅員の一種。
(注19)赤帽 ——— 駅で乗降客の手荷物を運ぶ人。
(注20)かがし ——— かかしのこと。
本文の表現上の特徴についての説明として適当なものを、次の選択肢のうちから二つ選べ。
- この文章はお絹の視点を中心に叙述されているが、「世話をして遣らなければなるまい、と、ひそかな親切心で思い廻らしていた」や「老父の愛情が、その帯を腰に捲かせた」という部分では、お絹の外部の事ふかん象に関しても、彼女の認識によらない俯瞰(ふかん)的視点から記述されている。
- 「足の痛みは体だけが感じていて、頭の中までは上って来なかった。」や「お絹の臍の上から胸の方へ、固い棒のようなものがぐっとこみ上げて来た」という部分では、身体表現を用いてお絹の感情の動きを躍動的に描き出し、彼女の内面からあふれ出る弟への気遣いを強調している。
- 「乗合自動車、電車、自転車が蚊の鳴くような微かな唸りを立てて、かすめていた。それらはまるで、別の世界で唸っていた。」という部分では、普段お絹が都会の様々な音に取り囲まれて日々を過ごしていること、一方でこのときはそれらを意識する余裕のないことが示唆されている。
- 「駅に這入るすぐ手前のカーブに差掛ってから、蒸気が切れた、とでもいう風にぐずぐずしていた」や「到頭、けたたましい最後の叫声を挙げて止まった」という部分では、汽車を擬人化した表現でお絹の思いとは無関係に時間が流れてしまう現実の残酷さを映像的に表現している。
- 「見知らない無数の首が、窓から出ていた。」や「やがて人々は、豆を煎るような音を立てて階段を上って行った。」という部分では、人々の姿を無機的な物質であるかのように描くことで、英二と同じ汽車に乗って来た人々に対して向けられているお絹の関心の強さを効果的に表している。
- 「まるで、奴凧が踊っているようであった。」や「水色縮緬の帯と奴凧の袖とが、お絹の瞳から離れなかった」という部分では、「奴凧」という同じ語を繰り返し用いることで、英二のおどけた様子とそれをほほえましく見つめるお絹の姿とが読者に印象的に映るように工夫している。
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